大内義隆公墓所(山口県長門市・大寧寺)

 

大寧寺の変

明智光秀が謀反を起こし、

織田信長を討った、

あの有名な本能寺の変に

先立つこと30年ほど前、

周防(山口)長門で起きたのが、

「大寧寺(たいねいじ)の変」と言われる、

大内義隆の家臣、

陶(すえ)隆房(のちの晴賢)が謀反し、

主君を討った戦いです。

正直、「大寧寺の変」と言われても

教科書にも出てこなかったし、

僕自身、このあたりの戦国史は

全く知りませんでしたが、

近世以前の土木・産業遺産というサイトで

大寧寺の参道に架かる

盤石橋という石橋に興味を持ち、

訪問したことで、

大寧寺の変も知ることが出来ました。

思わぬところから

意外な歴史に出会えるのは、

やはり旅の醍醐味ですよね。

ちなみに謀反を起こした陶隆房は、

四年後、厳島の戦いにおいて、

毛利元就に負け、命を落としています。

「姿見の池」と「かぶと掛けの岩」

大内義隆の墓に参る前に行ったのが、

大寧寺境内にある

「姿見の池」と「かぶと掛けの岩」と

名付けられた場所です。

竹柵が設けられて、

小綺麗に手入れされています。

案内。

最初に、

「大内氏は戦国時代、

山口にすぐれた大内文化を

育て上げた名族です。」

こう書かれていて、

その大内文化の代表的なものが、

600年近く前の姿のまま今も残る

山口市の国宝、瑠璃光寺の五重塔です。

二年前に訪問した時撮影した

瑠璃光寺五重塔。

やっぱり素晴らしい!

続いて案内には、

「義隆は境内に入る前、

乱れた髪を整えようと

参道わきの岩にかぶとを掛け、

そばの池に顔を映そうとしました。

しかし水面に自分の姿が映らず、

運命を悟った義隆は寺の本堂に入り、

潔く自刃したのです」

このように書かれています。

栄枯盛衰は世の常といっても

やはり悲しい・・・。

「大内義隆公兜掛之岩」

「大内義隆公姿見之池」

僕の顔も映らなかった・・?

そんな事は・・・(汗)

大内義隆公墓所

本堂を拝観後、

山を上って墓地を目指します。

石畳は江戸時代からのものでしょうか?

右は「此奥義隆父子墓」

左は「経蔵跡」の案内で、

そこには、

「義隆の重臣冷泉隆豊が

最後まで踏みとどまって、

力戦奮闘遂に力尽きて割腹自害し、

血痕したはらわたを投げつけた

と伝えられる経蔵の跡。

時に隆豊三十九歳。」

このように書かれています。

何だか戦闘の生々しい情景が

目に浮かんで来ますね。

あと一息。

墓所に到着。

案内によると、

大内義隆はじめ三十三柱の

宝篋印塔の墓が建てられているそうです。

静かな場所です・・・

「大内義隆主従の墓所

(遊仙窟)墓石等配置図」

これを見ると

先程のはらわたを投げつけた

冷泉隆豊の名前も

三番目にあります。

墓所。

大内義隆を守るように

家臣たちの墓があり、

その一つ一つの後ろに、

誰の墓であるかがわかるように

後世になって石碑が建てられています。

左が大内義隆の墓、

右が嫡男である大内義尊の墓。

左側には、

さらに姫君や重臣、

貴族たちの墓があります。

家臣の墓。

こちらも家臣の墓。

毛利家家臣の墓地

大内義隆公墓所の麓には、

毛利家家臣の墓があります。

お墓の全体像。

少し入ってみると、

ここでこんなものを発見。

一字一石一禮塔。

小さな石に一文字づつ

お経の文字を書いて埋めたものです。

ご夫婦を弔うものなのでしょう・・・。

こちらは毛利家家老の墓。

宝篋印塔というよりも

現代の墓に近い形ですね。

これで、大寧寺での墓参りは完了です。

 

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