甲佐神社(熊本県甲佐町)
御成敗式目を実践
鎌倉時代に出来た御成敗式目というのは、
武士の規範だと学校では習いましたが、
教科書には載っていない
御成敗式目の第一条、
最初のワンフレーズには、
「神は人の敬いによりて威を増し
人は神の徳によりて運を添ふ」
このようにあります。
甲佐神社と竹崎季長の関係は
まさにこの事を具現化した例でしょう。
元寇で活躍したにも関わらす、
恩賞からもれてしまい、
悶々としていた竹崎季長は、
「甲佐神社に参れ」と夢のお告げ通り、
神社に参った時、
境内東側の桜の枝に甲佐大明神が現れ
お告げがあり、鎌倉に行き直訴したところ
幕府から海東郡の地頭職を賜り、
季長がその御礼として甲佐神社に
「蒙古襲来絵詞」を奉納しています。
夢を信じ、
神の話を素直に聞き入れ行動した事が、
神威をも動かし、そして、大願成就して、
改めて神様にお礼参りをする。
こんな神と人とのやりとりは、
今の社会も変わりませんね。
御社殿へ
通りすがりで、たまたま見つけた
竹崎季長の墓に参った後は、
「蒙古襲来絵詞」が奉納された
甲佐神社へと向かいます。
この日は神社前の河川敷で、
甲佐神社のどんど焼きが行われていて、
一の鳥居の前には、
沢山の灰が沢山舞っていました。
これも巡り合わせ、
僕たち二人は、
神事の灰で清められたかも知れません(笑)
一の鳥居をくぐると
左手に現役を退いた
古い手水鉢があり、
いつごろのものかと裏側を見ると、
文政十丁亥(1827年)と
刻まれています。
石段で境内奥へ。
ここで見つけたのが、
ちょっと珍しい燈籠です。
右側の文政十二年(1829年)
奉納の燈籠は「力士」が、
片手で持ち上げています。
力士のアップ。
相当に重たそう(笑)
参道左側のものは、
天辺に阿形の龍神様が配置されていて、
こちらも参拝者の僕たちに
睨みをきかせて(笑)います。
参道両脇の杉の木は、
何となく神様の依代みたい?
拝殿へ。
古札納所。
手水舎。
手水鉢が何とも渋い!
参拝。
拝殿前の石段で、
盃状穴を発見。
書き置きの御朱印。
「御朱印を受けられた方は、
箸を一本お取りください」
このお言葉に甘えて、
僕たちもいただきました。
御朱印と祝箸。
神様からこんなご配慮をいただくと、
なんか、心がウキウキしてきますね!
こちらがいただいた
天然木の厄除長寿箸。
もったいなくて、
なかなか使えないな~(笑)
蒙古襲来絵詞
現在、「蒙古襲来絵詞」の実物は皇居の
三の丸尚蔵館にありますが、
甲佐神社には、
甲佐町在住の有志の方々が
その一部を模写し、
奉納された蒙古襲来絵詞が
拝殿に絵馬として掲げられています。
甲佐大明神のお告げなどの案内。
一部を抜粋すると、
「絵詞は縦幅約四十センチ、
長さは、前・後巻を合わせると
約四十メートルにも及びます」
このよに書かれています。
教科書だけ見たら全く想像つかない
超大作だったのですね!
出陣する季長(文永の役)
奮戦する季長(文永の役)。
教科書に使われている絵ですね。
追撃する白石六郎(文永の役)
白石六郎は、
竹崎季長の功績の証人でもあり、
後に、季長より、海東阿蘇神社の
初代宮司として迎えられた人です。
恩賞を賜る季長(文永の役)
船上で戦う季長(弘安の役)
絵詞奉納の主旨(後巻言葉16)
竹崎季長が蒙古襲来絵詞において
元寇の貴重な史料を残した功績は、
元寇での活躍の百倍、千倍くらいに
素晴らしいものとなっています。
季長には、この功績にも恩賞を
与えなければいけませんね(笑)
本殿
蒙古襲来絵詞に感動した後は本殿へ。
拝殿も立派ですが、
本殿はさらに大きく威風堂々としています。
本殿左前から。
本殿左後ろから。
本殿右横から。
彫刻が素晴らしい手挟と
デザイン性のある虹梁も見所です。
五輪塔
本殿横でお墓のようなものを発見。
古い石玉垣に守られた
五輪塔があります。
阿吽の狛犬の先の五輪塔。
どなたかのお墓または慰霊碑でしょうか・・・
願成桜
甲佐大明神のお告げがあったという桜を忍び、
2007年に植樹された桜です。
願成桜の周囲には、
おみくじの花が咲いていました(笑)
境内社
次に、いくつかの境内社へ。
横階段の境内社。
向拝付きの境内社。
古い境内社。
御祭神などがわかりませんので、
呼び方に苦労?します(笑)
ツーショットで参拝完了。
船着場跡
駐車場には、
神社前を流れる緑川には、
江戸時代の船着場跡があると
紹介されていましたので、
参拝後確認してみました。
案内。
石積みも残る(多分)船着き場跡。
今日のふしぎ発見
本殿の真後ろの不思議な丸い穴。
これは、いったい何でしょうか?
鳩が住んでいる?
まさか~(笑)