光善寺(山形市)最上義光の墓
栄光と悲劇
最上義光(よしあき)は、
伊達家に従属する小領主から
数々の戦をかいくぐり、
領土を拡大、
関ケ原の戦いでは、
徳川家康の東軍に味方し、
東北において、
上杉景勝との戦での奮戦を認められ、
その結果、
山形藩57万石の太守となった
輝かしい功績を残しています。
一方、
この人の名前を聞くと、
愛娘の駒姫が秀次事件に連座して、
豊臣秀吉により処刑された悲劇が
頭に浮かびます・・・
そんな栄光と悲劇の英雄、
最上義光は、
最上家の菩提寺である
光善寺に眠っています。
参道
墓参の前に
まずは、入口の縁起を確認。
縁起を要約すると
「慶長七年(1602)最上義光公が
開創したもので、元は慶長寺といい、
元和年間、家親公の時代に
光禅寺と改称した。
最上家改易後、鳥居忠政公が
山形城主になるに及び、
磐城の国より菩提所、
長源寺を招致し、
光禅寺の土地・建物を
長源寺に使用せしめ、
当寺を現在地に移転せしめた。」
大名の転封にはその大名の菩提寺も
一緒に引っ越しする例も多く、
ここでもそれが
実行されたという事でしょう。
ちなみに鳥居忠政は、
関ケ原の戦いの前哨戦、
伏見城の戦いで
西軍相手に孤立無援で籠城、
討ち死にした鳥居元忠の息子です。
お父様の大功のお陰で、
息子は優遇されていますが、
その後、不祥事などで大減封となり、
鳥居家は、3万石の大名として、
明治維新を迎えています。
入口。
最上家の家紋「丸に二つ引き」が
目を引きますね!
まずは、お墓へ、
本堂は後回し(笑)
本堂左手の墓所入口。
墓所
墓域の一番奥側にあるのが、
最上義光のお墓です。
エントランス。
「最上家三代之墓所」の標柱。
最上家墓所全景。
「最上三代の塋域」
最上義光公と、子、孫の三代の墓で、
それぞれの戒名、
殉死した家臣も一緒に
埋葬されていることなどが
書かれています。
案内の最後を見ると、
「山形商工会議所会頭
株式会社でん六社長 鈴木傳四郎」
このように記されています。
僕たちが豆菓子「ポリッピー」(笑)で
お世話になっている
山形を代表するお菓子メーカー
「でん六」さんの奉納なのですね!
そして、
ここで案内板に飛んできたのが、
こちらの赤トンボです。
最上義光公がトンボになって
いらっしゃったのかな?
歓迎してくださり、感謝です!
案内板の裏側。
出羽の関ケ原と言われる
「長谷堂合戦」についての案内の後に、
「なお、塋域(えいいき)とは、
「墓塔が建つ区域」の意である」
こんな説明までもが
掲載されています。
親切としか言いようがない案内板、
実に素晴らしい!
最上義光公の墓へ。
玉垣内に入れそうなので、
近づいてお参りすることに。
参拝。
そして、
殉死した家臣の墓へ。
参拝。
義光公、慕われていたんですね・・・
二代、最上家親公(右)、
三代、最上義俊公のお墓に参拝。
永和の板碑
墓所には、
最上家の祖先に関係する
古い板碑も安置されています。
「永和の板碑」
以下、案内です。
「碑面上部に阿弥陀如来の種子(梵字)
キリークと、
無量寿経四十八願の一節を刻み、
この卒塔婆建立の意趣と造立の年号を、
永和二年丙辰八月彼岸第二番と
刻んでおります。
明治二十九年山形城跡が連隊となり、
地均し工事の時に二の丸跡より
発掘されたもので、
永和二年(1376)は最上の始祖、
斯波兼頼公が場内に草案を結んで
出家した翌年にあたります。」
最上義光公の墓(左)と、
息子、孫の二つのお墓の間に
配置されています。
斯波兼頼公もこれに向かい、
念仏を唱えていたのかも知れませんね。
(続く)