毛利秀包公廟所・西楽寺(山口県)

 

秀吉のお気に入り

毛利秀包(ひでかね)を知ったのは、

久留米城内に鎮座する

篠山神社の境内社として建つ、

小早川神社を参拝した時でした。

小早川神社の石祠。

毛利元就の末子である秀包さんは、

兄、小早川隆景の養子となり、

その後、

人質として豊臣秀吉へ預けられ、

戦での活躍と、

イケメンだった(笑)事もあり、

秀吉のお気に入りの一人として、

13万石の久留米城主へと抜擢。

しかし、

関ケ原の戦いでは西軍につき改易され、

翌年、亡くなっています。

その秀包さんのお墓があるのが、

山口県下関市豊北町の西楽寺です。

西楽寺参拝

角島から西楽寺へ向かう途中

偶然見つけた特牛こっといを堪能。

その後、毛利秀包さんのお墓がある

西楽寺へ。

駐車場がどこにあるのか、

ちょっと迷ったものの

本堂に隣接した

広大な駐車場を発見。

駐車場の片隅に

さりげなく建てられた木柱。

「今日も生かされています」

確かに、「生きている」ではなく、

「生かされている」なんですよね、

僕たち人間は!

いきなり納得の一言をいただき、

有り難い限りです。

参道の起点に建つ標柱。

素晴らしい景観の参道。

ここから見ると、

本堂の巨大さが分かりますね!

山門。

山門から参道を振り返って撮影。

心落ち着く素敵な景色です。

山門入って右側の親鸞像。

古い手水鉢。

本堂に参拝。

鐘楼。

毛利秀包墓所

本堂を参拝した後、

秀包さんのお墓の案内を探したものの

それらしきものは見つからず・・・。

その時、妻の一言が。

「本堂の裏側じゃないの?」

確かに当たっていそうです(笑)

本堂左側から裏へ。

本堂すぐ横の参道から奥へ。

奥にお墓がありそうな雰囲気(笑)

本堂の真裏へいくと、

妻の予言は的中(笑)

「毛利秀包」

一部を抜粋すると

以下になります。

「(秀包は)病にかかり

慶長六年三月二十三日

赤間関で没した。行年三十五。

嫡男の元鎮は、

山口藩主毛利輝元の命により

父秀包のひつぎを現在地の墓所に葬った。

秀包の墓に寄り添うように

家老白井兵庫入道の墓がある。

秀包没後も幼君元鎮を補佐して

慶長十六年(1611)に殉死した。

現在ある秀包の五輪塔は、

没後百十二年の正徳二年(1712)

三月二十三日に吉敷毛利家五代、

広包が造立した。

「瑞光公神道碑」は二百年忌の

寛政十二年(1800)三月に

吉敷毛利家九代房直が建立。

また、

没後百十二年・二百五十年忌と

三百年忌の三月にそれぞれ

灯籠一対が建立されている。」

お墓に関して、

建立年代も含めここまで詳しく

懇切丁寧に説明がある事自体に

驚き、かつ感銘を受けました。

毛利秀包さんの人柄なのでしょうか、

子孫に大切にされてますね!

墓所。

本堂の真裏に位置するので、

本堂に参拝した人が、

知らないうちに(笑)

秀包さんのお墓にも

手を合わせている事になるんですね!

参拝。

正徳二年に吉敷毛利家五代、

広包が造立した五輪塔。

寛政十二年に

吉敷毛利家九代房直が建立した

「瑞光公神道碑」。

山口では、どこに行っても

「カメさん」の碑を見ます(笑)

碑の横には、

「九世之孫 大江房直敬建」

このように刻まれていて、

やはり毛利家の祖である

「大江広元」の「大江」が、

正式名称(笑)なんでしょう。

「家老白井兵庫入道の墓」

先程案内にあった殉死した方で、

確かに主君、秀包さんに

寄り添うように

お墓が建てられていますね。

この人は、

関ケ原の戦い後、

久留米城の籠城戦で、

黒田方に対し降伏開城した人。

もしかすると、

その時の責任をずっと感じていたのも

殉死した一因かも知れません・・・

合掌・・・。

最後は本堂前にてツーショット。

これにて、

毛利秀包廟所の参拝は完了です。

 

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