三嶋大社(静岡県三島市)前編

 

典拠の明記

親切な事に、

三嶋大社の案内や碑文の多くには、

昔の出来事についての

「典拠」が明記されています。

このお陰で、三嶋大社の思い出が、

より鮮明になった気がします。

妻好みの木

三嶋大社の駐車場は境内の一角にあり

平日というのに、

渋滞が起きるほどの盛況ぶりです。

そして、

僕たちが警備員さんに誘導されたのは、

社頭近くのこんな木の傍でした。

この枯れた感じ、

めっちゃ妻好みですよ(笑)

せっかくのご縁なので、

妻と木のツーショットを撮影。

源頼朝旗挙げの碑

妻好みの木のすぐ裏に、

いくつかの石碑が建っていまs。

右から、三島神社の旧社号表と説明碑、

真ん中の高いのが「祝捷碑」、

(日清戦争に勝利したことを祝うもの)

一番左が、頼朝旗挙げの碑です。

やはり注目は、頼朝さんでしょう!

「源頼朝旗挙げの碑」

「治承四年八月十六日源頼朝は

北條時政を招き旗挙げの相談をし

「先つ八牧判官兼隆を

夜討ちにするべし急ぎ相計らへ」

時政「但し今夜は三島社の御神事にて、

国中には方矢をとる事候はず」

(源平盛衰記)

との意見を入れ、

十七日夜討ちと決定した。

十七日藤九郎盛長を

奉幣使として戦捷を祈請し

(東鑑)旗挙げに成功したのである。

二日後、

すなわち八月十九日報賽のため

神領寄進の下文を寄せた

現在この下文は宝物として社蔵されている」

三嶋大社と頼朝挙兵の関係が

よくわかりますね!

三島社の祭礼に行っていて

八牧判官兼隆(山木兼隆)の側には、

護衛がいなかったという事なのでしょう。

三嶋大社のご加護は、絶大です!

そして、

頼朝挙兵に関わるもう一つの見所が

参道脇にあるこちらの木です。

「安達藤九郎盛長 警護の跡」

案内を書き出すと以下になります。

「治承四年(1180)源頼朝が

源家再興を祈願し百日間毎晩蛭島より

三嶋大社に日参する際に

従者盛長が此の所で警護したと

伝えられている」

頼朝さんは三嶋大社の神様の

絶大なバックアップもあり

平家追悼の

大願を成就できたのでしょう!

参道

道草ばかりしていましたが(笑)

ようやく社頭から参拝へ。

一の鳥居。

神紋入りの灯籠。

安永二年(1773)寄進の石灯籠。

「たたり石」

案内を書き出すと

次のようになります。

「此の石は大社前旧東海道の中央にあり、

行き交う人の流れを

整理する役目を果たしていた。

たたり(絡垜)は本来、

糸のもつれを防ぐ具であり

整理を意味する語である。

後に往来頻繁になり

これを取り除こうとする度に

災いがあったと言われ、

絡垜が祟りに置き換えられる様に

なったと言われている。

大正三年に、

内務省の道路工事によって

掘出され神社に於いて此処に据えられた。

今日では、

交通安全の霊石としての信仰がある。」

へ〜「祟り」は「絡垜」、

前向きな意味と

表裏一体なんですね!

池の真ん中を通る参道。

石橋。

池に浮かぶ厳島神社。

右側の案内。

「厳島神社

祭神 市杵島姫命

北條政子が勧請し

殊の外信仰したと伝えられる

当社は家門繁栄・商売繁盛

安産・裁縫等の守護神として

広く信仰されている。」

左側の案内

「神池

天長四年(827)神池の水が渇れ

天下大旱し神官の訴えにより

朝廷は三嶋神殿に於いて

澪祭(雨乞)を行わしめた

六月十一日から十五日まで大雨が降る

時の帝は当社に圭田を寄せ

神官に禄金財帛を賜った(類聚国史)

元暦二年(1185)八月

源頼朝は神池に於いて放生会を行い

その際糠田郷、長崎郷を

三嶋社の料と定めた(吾妻鏡)」

ここでも「典拠」がしっかり

明記されています。

Wikipediaによると

類聚国史は菅原道真の編纂で

892年に完成と書かれていますので、

雨乞いからまだ65年後ですから、

間違いなく、

大雨が降ったはずですね!

厳島神社へ。

参拝。

振り返って嵐渓燈籠と参道を撮影。

春には枝垂れ桜が

素晴らしいのでしょう!

昭和6年竣工の総門。

この中で注目はこちら・・・

三鱗紋兵庫鎖太刀(北条太刀)

名前の通り、三つ鱗だらけです。

さらに進んで行くと、

右側には新旧二つの建物があります。

宝物館。

芸能殿。

案内を超訳すると、

「慶應四年(1868)に完成した

旧総門で、現在の総門が出来た後、

一部改造し、「芸能殿」として保存」

このようになります。

芸能殿と同じく

慶応四年完成の神馬舎。

愛らしいお顔です。

「源頼朝 北條政子腰掛石」

「治承四年五月源頼朝が

平家追討の心願を込め

百日の日参をした折

腰を掛けて休息したと伝えられる

左側は源頼朝

右側は北條政子の

腰掛けた石である」

妻は頼朝さんのお尻と合体(笑)

手水舎。

コロナ禍への対策なのか、

手水鉢には生花が配置され

お手水自体は別の場所で

出来るシステムです。

自動手水で禊完了(笑)

神門。

見所たくさんの三嶋大社、

やっと本殿近くまで

辿り着きました(笑)

(後編に続く)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください