武蔵塚公園(熊本市北区)

 

直前の旅程変更

元々は、熊本の天草と

長崎の島原を巡る

一泊二日の旅だったものが、

旅の直前、

天草の方は、そのままそっくり

「宮本武蔵の日」に変更となりました。

その理由は、

最近、妻が宮本武蔵に興味を持ったのと

その直後、

リニューアルされた小倉城天守で、

宮本武蔵がかなり詳しく紹介されていた事、

おまけに養子の宮本伊織が

江戸時代初期に建てた、

武蔵を顕彰する石碑である

小倉碑文にまでも訪問したことにより

よりディープな武蔵に触れたくなったのが、

きっかけでした。

武蔵が五輪書を書き、

終焉の地でもあり、

お墓もある熊本では、

武蔵の足跡満喫の旅となったのです。

武蔵塚公園にて

熊本駅から阿蘇方面に車で約30分、

武蔵塚公園の駐車場に到着。

駐車場入口。

武蔵塚の案内。

「寛永十七年(1640)

肥後藩主、

細川忠利の招きによって

武蔵は熊本に来たが、

翌年忠利は逝去し

以来武蔵は寂しく晩年を送り、

四年後の正保二年(1645)

五月十九日に六十二歳をもって

千葉城跡に私宅で亡くなった。

そしてその墓は、

武蔵の生前の希望により

この地に定められたという。

天下無双の武芸者だった武蔵は、

また芸術の面にも

優れた天分を持っていた。

その枯淡で風韻のある書画彫刻によって、

永年の修行により

培われた人格の程が偲ばれる。」

このように書かれています。

確かに文武両道として凄い人ですが、

武蔵の素晴らしさは、

人の親としてのあり方だと思います。

養子の宮本伊織を

小倉藩小笠原家において、

明治維新まで続くほどの

家老に育てあげたことこそ

人格者の最たるものを感じます。

よくある、

求道者、芸術家=狂気と隣合わせ。

こんな構図は武蔵には、

微塵も感じられませんから。

武蔵塚公園の周囲は、

まるでお城のような外観です。

駐車場方面の入口へ。

ここから入場。

手入れが行き届いた、

清浄な公園です。

宮本武蔵像

まずは、宮本武蔵像へ。

お~武蔵だ~(笑)

横から。

ズームして撮影。

う~んどこから見ても

隙がないな~(笑)

二天一流(五方の形)の紹介。

五輪書の内容や、

五輪書を書いた、

霊厳洞などを写真入りで紹介。

宮本武蔵の墓

武蔵像の奥、

木々に囲まれた場所が、

武蔵のお墓となっています。

エントランス。

お墓が見えてきました。

先ずはお手水。

参拝。

狛犬や榊を見ると、

神式で葬られているのでしょうか?

あくまでも推測ですが。

お墓の右隣には、

パンフレットが配置されています。

厚手の立派な紙質で、

武蔵にふさわしい逸品と言えます。

(言い過ぎか~?笑)

そして、その右隣にあるのが、

こちらの石碑です。

「宮本武蔵先生獨行道に就て」

案内には、

「正保弐年五月十二日(1645)

武蔵は自己の死期の数日後に迫るを覚り

病床に於いて自ら筆を執りて獨行道と題し

辞世或いは自戒の心を以ってか

次の二十一ヶ条を書せり。

その直筆を写し建設せしものなり」

このように書かれています。

二十一ヶ条のうち

一番響くのは、

「仏神は貴し、仏神をたのまず」

やはりこれでしょう!

僕の考え方と完全にシンクロして、

正直嬉しさまでが、

こみ上げてきます(笑)

松浦新吉郎の墓

武蔵の墓の左奥に、

こんな看板が建っています。

松浦新吉郎。

案内を要約すると、

「松浦新吉郎は、

明治10年の西南戦争で

薩摩軍として参加した細川藩士で、

戦いに敗れて長崎で刑死、

武蔵塚の傍らに眠りたいとの

遺言によりこの奥に安置されている」

このように書かれています。

この門をくぐって、

道路一つ隔てたお墓へ。

参拝。

お墓の右側から撮影すると

武蔵の墓のすぐ後ろに

配置されていることが良くわかります。

無念ではあったでしょうが、

ここに眠る事が出来た松浦新吉郎、

ある意味幸せかも知れません。

今日の面白写真

武蔵塚公園には

東屋が一軒あります。

庭園を眺めるためのものでしょうか。

真ん中に寝っ転がって

天井を見上げてみると、

ちょっと面白い写真が撮れました(笑)

 

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