長崎歴史文化博物館(長崎市)中編
原爆の「げ」の字もない
長崎市と言えば、
江戸時代の日本唯一の貿易窓口で、
西欧文化発展の地であるとともに
原子爆弾が落とされた都市としての
イメージが浮かびます。
そんな原爆の「歴史」がありながら
ここ長崎歴史文化博物館では、
「原爆」という文字は
全く見かけませんでした。
原爆に関しては全てを
「長崎原爆資料館」に任せ、
ここでは、戦国時代から
幕末維新、明治初期までの
西欧との関わりとそれにまつわる
人や物や事のみを展示案内しています。
長崎歴史文化博物館の前編でも書いた
「焦点を絞る」という利点、
原爆に関しても言えてますね。
幕末維新へ
16世紀から始まった内容も
徐々に幕末維新に向けた
展示となってきます。
まずは、寛文の長崎大改造から。
江戸が大火事の後に
町並みが整備され
素晴らしく発展したように
長崎も類にもれず、大火事の後、
大きく都市は発達し、
機能的になっていました。
今までのしがらみばかりが多い町を
その場限りの小手先で整備し直すよりも
真っ白なキャンパスに絵を描く方が、
どれだけ自由度が高く、思い通りの
ものが描けるかは、子供でもわかります。
このごろ話題の築地から豊洲への市場移転、
あれも永年の築地でのしがらみを断ち切る
一つの方策でもあったのかと
僕は勝手に推定しております(笑)
長崎の工芸品の製作過程を
体験出来るコーナー。
出島はモノと知の発着点。
確かにここがあったから
江戸時代、鎖国状態であって
逐一西欧の情報も入って来て、
幕末の列強に対しても
それなりの対応が出来、
しいては日本は植民地化、
奴隷化されずに済んだのでしょう。
日本文化は西欧で
大いに受けていますね!
1808年のフェートン号事件と
その後の長崎防衛の強化についての展示。
イギリス船がオランダの国旗を掲げ
長崎に入港し、人質をとって
食料や水を要求し、
日本がその要求に屈してしまった事件です。
しかしこの一件があったお陰で、
日本の防衛強化と、英語を学び、
諸外国に対応する
能力アップが出来たという
メデタシメデタシな事件かも知れません。
しかし、
この時の長崎奉行は責任を取り(取らされ?)
切腹していますし、
事件が起きた時、
長崎警備当番だった佐賀藩は、
経費削減のため
長崎には本来の兵力の
10分の1ほどしか出しておらず、
従って事件への対応もままならず、
幕府から大目玉を食らい、
家老の何人かが切腹しています。
ただ佐賀藩は、
失敗から大いに学んでいました。
この痛恨の出来事を教訓として
大いに活かしたのが、
鍋島直正の近代化作戦で、
日本初の蒸気船や、
大砲も自前で作ってしまうほどで、
その結果、佐賀藩は、
明治維新の牽引者となったのです。
こちらもまた、
メデタシメデタシかも知れません。
しかし、めでたくないのが、
オランダでした。
事件当時のオランダは
ナポレオン率いるフランスの支配を受け、
もはや独立国ではなく、亡命政府は
イギリスに逃げています。
そんな背景を思いながら
次のパネルを見ると、
少しオランダに同情してしまいます…
蘭学とは、オランダ語を通じて
西洋を学ぶこと。
しかし、日本が先生としたオランダは
植民地化されている…
食うか食われるかの
弱肉強食の人間界、
いつ国の立場が変わるかも分かりません。
そのオランダを支配したフランスも
第二次世界大戦の前半ではドイツに負け、
全領土を失ってしまい、
亡命政府がイギリスに渡っているし、
そのフランスの植民地だった
ベトナム(当時はインドシナという名前)を
日本が占領したことを考えると、
フェートン号事件のデジャヴのようですね。
まさに歴史は繰り返す?
こちらは日本初の洋式軍事調練の記録図。
長崎出身の高島秋帆(しゅうはん)が
1841年に行なったもので、当時、
武蔵国徳丸が原といわれ、
幕府直轄地だったこの場所は、
今現在、
この高島秋帆の「高島」にちなんで、
東京都板橋区高島平(たかしまだいら)
という地名となっています。
二つとも高島秋帆の書。
右は「病除けの虎図」
虎の表情を見ても、
ユーモアある人柄だったことが
伺われますね。
日本で活躍した外国人。
シーボルトは有名ですね。
そして、次にあったのが
「のぞき部屋」(笑)
丸いのぞき穴から見ると…
その中には出島で暮らす
オランダ人の日常が見えます。
ビリヤードもあったようですね!
子供が喜ぶ(僕も喜ぶ)仕掛けが
あって楽しめます。
そして、もう一つ興味深いものが
こちらです。
幕末の出来事をニュース番組にしています。
キャスターや解説者もいますよ(笑)
そして、ここからが
僕たちの一番見たかった場所。
真打ち登場!
坂本龍馬、上野彦馬、
そして、知らないおじさんの
三人が僕たちを大歓迎(笑)
ここから先は、後編へと続きます。