長篠城址史跡保存館(愛知県新城市)

 

体験すれば理解出来る

教科書で習った

長篠の戦いといえば、

信長が鉄砲の一斉射撃で、

武田軍を壊滅させた

画期的な戦いというくらいでしょう。

僕もそんな認識で、60年ほど

生きてきました(笑)

しかし、現地に行くと、

それだけではない

人間模様が沢山見えてきます。

その一つが、

武田勝頼と信玄公以来の

古参家臣たちが、

理解しあえなかった悲しさです。

身内での齟齬があれば、

それは即、負け戦に繋がり、

しいては滅亡への道となります。

まあ、現代の企業でも同じかな?(笑)

長篠へ

空の旅を満喫したあとは、

レンタカーで長篠へ。

空港到着口前には、

飛行機の時間に合わせて

職員がやってくるタイプの

オリックスレンタカーの出張所があり、

車もすぐ隣の駐車場で受け取れるので、

利便性は抜群です。

今回の相棒、日産デイズ。

名古屋飛行場から長篠までは、

約2時間近いロングドライブ。

途中のパーキングで昼食。

「だし巻き」のサンドは、人生初。

美味しくいただきました!

長篠城址史跡保存館

長篠城、本丸横の曲輪内に建つのが、

長篠城址史跡保存館です。

切妻屋根の櫓風建物。

この時、

切妻ならぬ、妻が発見したのが

こちらの家紋です。

鬼瓦の「奥平団扇」。

長篠城を死守した

奥平信昌の家紋です。

その子孫は、

江戸時代の享保二年(1717)、

現在の大分県、

中津藩へと転封となり

明治維新を迎えています。

その中津城内の

奥平神社訪問時の写真に

この家紋が写っていました!

めっちゃ目立つ賽銭箱に

くっきりと配置された奥平団扇。

しかし、訪問した4年前、

僕たちは家紋に全く興味なし。

この写真、長篠に行って、

ようやく日の目を見たかも?(笑)

長篠城址史跡保存館横の案内。

長篠城周辺の勢力変遷図が秀逸!

桶狭間の戦いで今川の勢力は

一気に衰退し、

徳川と武田の一騎打ち状態に。

奥平氏はその二大勢力の間で、

今川氏、徳川氏、武田氏、

そして、また徳川氏と主君を変え、

子孫は明治維新まで続いています。

これを変節というのは酷な話。

何とか生きる道を模索し、決断し、

子孫を繁栄させたことに心から拍手です。

そして、長篠城といえば、

この人、

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)です。

コインロッカーの

デザインになっていました(笑)

武田軍に包囲された

長篠城から抜け出し、

援軍が来るかどうか確認を終え、

また長篠城に戻る途中、

武田側に捕縛され、

「城に向かって援軍は来ないと言え。

そうすれば命を助ける」

そう言われながらも

城の前に立ち、

「もうすぐ援軍がくるそ!

あと少しだ!頑張れ!」

こう叫んだため、

磔にされてしまった人です。

階段で館内へ。

館内は一部を除き撮影OKですが、

写真は個人で楽しむ以外、

ネットやSNSなどはNG。

ということで、

パンフレットのみ画像アップしてみました。

設楽原歴史資料館と共同のパンフ。

左下に長篠の戦い時の各武将の

年齢が書かれていますが、

徳川家康が33歳で、

嫡男の信康が17歳、

何と、16歳の時に生まれた子です!

家康さん、

66歳で最後の子供(市姫)を

作っているそうで、

平和な世ならば、

それもあるでしょうが、

生まれてから大坂の陣まで、

ず~っと死ぬか生きるかの

戦乱の中だったのに、

50年間も子作りに励んだとは、

やはり天下人、尋常ではありません。

パンフレット裏側。

やはり、鳥居強右衛門さん、

ここにも登場していますね(笑)

そして、

資料館見学後は、長篠城の散策へ。

 

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