名島城(福岡市)

 

嬉しい誤算

小早川隆景の墓や、

山門として移設された

名島城の搦手門が現存する

宗生寺への訪問が決まった時、

妻との会話で、

何気に小早川隆景が

筑前国で本拠地とした

「名島城」の話になりました。

妻が戦国武将や城に興味を持つ前、

僕は以前「一人」で訪問した事があるので、

話だけのつもりだったのですが、

「小早川隆景の名島城、行きたい!!」

この妻の一言で、即訪問決定。

数年前、妻の眼中になかった名島城に、

今度は妻が率先していくなんて、

驚きとしか言いようがありません(笑)

いつもふわふわしている妻が、

還暦過ぎてから

これほど何かを探求する人になるとは、

全く思ってもいませんでした。

まさに人が変わった妻、

僕には嬉しい誤算ですが(笑)

名島城へ

小早川隆景のお墓がある宗生寺、

柳川藩、立花宗茂の父、

戸次(立花)道雪の墓がある梅岳寺

二つのお墓に参った後は、

名島城へと向かいます。

名島城に無料駐車場はありませんので、

最寄りの駐車場に停め、

ここから徒歩で攻城。

住宅街を抜けると、

名島城の入口が見えてきます。

入城。

案内を超訳すると、

「小早川隆景が、

天正十六年(1588年)

2月25日から築城を開始。

名島城は、秀吉による朝鮮出兵の

軍事基地としての役割あった。

その後、文禄四年(1995年)

隆景は養子の小早川秀秋を

名島城の城主とし、

自身は三原城に隠居しそこで亡くなった。

関ヶ原の戦い後、その功績から

秀秋は岡山に移り、黒田氏が入国し、

福岡城築城の際、

名島城の建造物や石垣は

解体され、福岡城へ運ばれ、

その遺構として、3つの門が

移設され現在に残っている」

このように書かれています。

古地図を拡大撮影。

元々は「島」だった場所ですが、

今は完全に陸地の一部ですから

往時の姿はほぼ見られません。

大手石垣の遺構。

こちらも少し残る石垣。

本丸へ。

石碑。

本丸端に建つ、

「小早川隆景公

名島城入府四百年記念」の碑。

読みやすくて美しい文字だな~

と思って読んでいたら、最後に、

「大徳寺中黄梅院

二十七世太玄」と書かれています。

京都の大徳寺と福岡の名島城とが、

どんな繋がりがあるのかを調べてみると

驚きの事実を発見したのです。

京都春秋という観光サイトによると、

「永禄5年(1562)、

当時28歳の織田信長が

初めて上洛した際に、

父・信秀の追善菩提のために

小庵「黄梅庵」を

建立したことに始まります。

本能寺の変によって信長が急逝すると、

羽柴(後の豊臣)秀吉がこれを

徐々に増築し、

天正17年(1589)に

「黄梅院」と改めました。

庫裡、鐘楼、客殿などは

小早川隆景が寄進したもので、

鐘楼に使用されている釣鐘は

加藤清正が献上したもの、

秀吉の軍旗「瓢箪」を象った

空池を持つ「直中庭」を

千利休が作庭するなど、

桃山時代の戦国大名、

文化人と非常に縁の深い寺院です。」

ここでもどっさり(笑)寄進していたのか!

小早川隆景さん!

一大名にも関わらず、

実に膨大な数の寺社への寄進、

凄すぎます。

しかも、日頃は入れない

この大徳寺黄梅院、

4月10日から5月30日まで、

特別公開されるというのです!

いや~今こんな事を知るなんて、

これもご縁かも?

ホントに見たいな~(笑)

本丸。

東屋には歴史の紹介があります。

神功皇后から多々良浜合戦まで。

名島城築城から戦後まで。

のどかで良い日に来たものだ~(笑)

隅櫓跡。

礎石っぽいものがありますが、

往時のままかどうかは、

わかりません。

臥龍桜。

龍が横たわるように見える桜の木だから

こんな名前がつけられたのかな?

最後に、名島城から見た、

立花山城(立花山)を撮影して〆。

今回の名島城訪問の功労者は妻(笑)

妻が「名島城に行きたい!」

そう言ってくれたお陰で、

もしかすると大徳寺に行く

きっかけになるかも知れませんから(笑)

今日の駅舎

3年前、

僕が一人で名島城に行った時に撮った

「名島駅」の写真です。

お城の建物はなくても

こうして駅舎を

お城風のデザインにしているのは、

素晴らしい発想ですよ。

西鉄さん、グッジョブ!

 

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