南州神社(山形県酒田市)御社殿
勝者が一目置いた庄内藩
西郷隆盛の出身地、
鹿児島県から遠く離れた
山形県酒田市に西郷隆盛を祭る、
南州神社がある事を知ったのは
妻からの情報です。
何故そんな所に、
南州神社があるのか?
簡単に言えば、
戊辰戦争で庄内藩が、
めっちゃ強かった事です。
人・物・金の三拍子揃った庄内藩は、
新政府軍に恭順降伏したものの、
それまでの戦いは、勝利ばかりで、
領内に敵軍の侵入も
ほぼ許していません。
結果、
勝者に一目置かれた庄内藩は、
戦後処理も寛大で、
その処理の指示をした西郷さんは、
庄内藩士から尊敬され、
交流が始まったという訳です。
パンフレット
まずはパンフレットから。
表面。
ここでの肝は、
何と言っても「南州翁遺訓」です。
中面。
一部を抜粋すると以下になります。
「戊辰戦争で帰順降伏した庄内藩は、
南州翁(西郷隆盛)に公明正大な
極めて寛大な処置を賜りました。
明治3年〜8年にかけ
庄内藩主酒井忠篤公を先頭に
訪鹿し南州翁の学びを得ました。
学んだ全てを書き残し明治23年
「南州翁遺訓」として刊行しました。
旧庄内藩士たちはこの「南州翁遺訓」を
風呂敷に背負って
全国を行脚しながら配布しております。」
社頭
神社横の駐車場から社頭へ。
「飯森山 南州公園」。
お〜これは、
鹿児島銀行の寄贈ですね!
山形県で鹿児島銀行の文字を見るとは、
これだけでも
めっちゃ気分が上がりますよ!
社頭前に広がるのどかな景色。
参道
回れ右して参拝開始。
お邪魔します。
手水舎。
薩摩藩の家紋「丸に十字」&花手水、
山形で鹿児島を感じられるなんて、
ちょっと不思議な気がします。
参道両脇の白百合の花、
これには意味がありました・・
案内には、
「境内の百合は「永良部百合」と言います。
交流のある
沖永良部島和泊(わどま里)より、
十数年前から毎年贈られてくる
球根を当地で育てたものです。
沖永良部島とここ荘内は、
西郷南州翁の威徳で結ばれており、
今日もその縁(えにし)を大切に
交流を続けております。
青空に輝く純白の百合の花は、
両地を結ぶ
「きずな」の証といえましょう。」
このように書かれています。
西郷隆盛が罪人として流されていた、
沖永良部島との交流、
素晴らしいですね。
透き通るような白、
まだ咲いてて良かった・・・
拝殿
白百合に癒されながら、
参道を歩きます・・・
拝殿内へ。
参拝。
ここにも薩摩藩の「丸に十字」紋。
ここは、拝殿を兼ねた、
展示場でもあります。
「徳の交わり」の二人、
西郷隆盛(右)と、
庄内藩士、菅実秀の肖像画。
パンフレット・記帳所とともに、
置いてあるのが、
「南州翁遺訓」です。
持ち帰りくださいのお言葉に甘え、
僕たちも一冊いただくことに。
多分読まないであろう妻の笑顔(笑)
僕が読んで妻に解説するしかない
近未来を予想中(汗)
開けてビックリ、
佐賀藩、副島種臣の書ですよ!
書き出すと、以下になります。
「南州翁遺訓一巻は
区々たる小冊子といえども、
今の時に当りて故大将の威容の厳と
声音の洪与観るに足る有るは、
独り此の篇の存するに頼る。
噫、西郷兄何を以ってはやく死せるか。
この書を著す者は誰ぞ、
庄内賢士大夫某々。
明治二十三年一月
副島種臣」
最後の一文、
「この書を著す者は誰ぞ、
庄内賢士大夫某々」
これを庄内藩士達が見たら、
風呂敷に背負って
全国を行脚したくなるはずです(笑)
「西南戦争で西郷先生に殉じた
荘内の二青年」
西南の役において、
西郷軍に従軍した二人の青年は、
それぞれ植木と御船で
戦死したことが述べられ、
結びに、
「鹿児島の南州墓地の中に、
しかも西郷先生のお墓のすぐ前に、
我が荘内出身の二青年の墓がある。」
このように記されています。
西郷隆盛が、
沖永良部島に流されていた時の漢詩。
「獄中有感」
以下、口語訳後半の抜粋です。
「もし運命が開けなくても、
自分は天朝に対して勤皇の真心を
推し通したい。
京都の親しい志士たちは皆死んでしまい、
南の小島にとらわれ人の自分が
ひとりぬくぬくと生き残っている。
生死が天命によることは疑いないが、
どうか死んでも魂はこの世にとどまって
宮城をお守りしたいものである。」
「種豆南山下」から始まる漢文。
訳文のまとめに
「着物が濡れるぐらいは
別段惜しいとは思わぬが、
どうか私の期待を裏切らず、
豆が無事に育ってくれるようにと
祈るばかりだ。」
このように記されています。
漢詩のことはよくわからないけど、
西郷さんは、
人や国が育つことの例えを
豆の成長として詠んだのかと
深読みしてしまいます(笑)
記念スタンプ。
二種類共押してみました。
「えらぶゆり」、
心に響きますね・・・
本殿に参拝。
この後は、
西郷隆盛と菅実秀の
対話坐像へと向かいます。
(続く)