西堀・島義勇之像(佐賀城一周)
悲願達成(笑)
島義勇の銅像を訪問するのは、
約6年ぶりのことです。
前回は、駐車場を探しきれず、
僕と妻はそれぞれが車に残り、
一人づつ超高速で、
見学したのを思い出します。
なので、
ツーショット写真が撮れず、
何となく心残りでもありました・・
そしてこのたびの訪問は「徒歩」。
駐車場を憂うこともなく(笑)
ついにその悲願達成となったのです。
西御堀端小路
北堀から西堀へ。

このブログで書いているのは、
ホテルニューオータニ佐賀から
西堀の中間地点、
城内通りとの交差点にある
島義勇の銅像までとなっています。

「西御堀端小路」
以下、案内です。
「400年あまり前に佐賀城が築かれた際、
西堀をつくるために武家屋敷は
郊外に移転され、
堀に面して武家地が新たに成立しました。
これが南北800mにわたる
西御堀端小路です。
北は重臣の久保田村田家の屋敷他、
南は鬼丸聖堂に隣接していました。
小路内には上級〜中級の
武家屋敷10軒ほどがあり、
現在地の向かいには
重臣神代家の下屋敷がありました。
西御門橋付近には
大組頭坂部家の屋敷があり、
軍事調練の際などには、
坂部組所属の数百人の藩士が
一斉に集合することもありました。
かつての建物は残されていませんが、
長い小路を堀の景観とともに
見通すことのできる場所のひとつです。」
ここに書かれている
「堀の景観」がこちらです。

広大な幅の西堀。
案内によれば、
佐賀城の四方に造られた水堀のうち、
江戸時代の幅のままで
完全に残っているのは、
この部分だけだそうで、
大変貴重な遺構です。

堀沿いの道からは、
8年ほど前に参拝した
與賀神社(与賀神社)の本殿と
朱赤の楼門が垣間見えています。

西堀端から見た
ホテルニューオータニ佐賀と北堀側。
そして少し南下すると
気になる建物が・・・

お店というか、
資料館的というか・・

「吉島家
緞通ミュージアム」
資料館的なものが正解のようですね。

「鍋島緞通 吉島家」
通りかかった時は、
何かもわかりませんでしたが、
「鍋島緞通 吉島家」のサイトには、
以下が書かれています。
「誕生したのは、今から300有余年前、
江戸元禄年間(1688年~1704年)の
ことで、中央アジアからトルコ、
中国などを経由しこの佐賀の地に
技術が伝わったといわれています。」
これ以降緞通は、佐賀藩御用となり
一般への販売は禁止されていましたが、
明治になり販売は解禁され、
大正時代から製造販売を始め、
今に至ったのが吉島家という訳です。
江戸時代から絨毯の製造が
佐賀藩でされていたとは、
これは凄い事ですよ!
これも徒歩ならではの発見ですね。

島義勇像まであと少しという地点で、
妻が大隈重信の墓がある
「龍泰寺」の電柱看板を発見!
佐賀城の後に参拝する予定でしたが、
「近くなら今行った方が良いよ、
後から時間が無くなって
行けなくなるかも知れんし!」
こんな妻の指南により、
急遽ここを右に曲がり、
龍泰寺へ行ったのですが、
書けばかなり長くなるので(笑)
当ブログでは、
先に西堀にある島義勇の銅像までを書いて、
次回、龍泰寺編という事にします。

銅像、見えてますね!

交差点名は「島義勇像前」。

「島義勇之像建立地」。

裏側には、島義勇の生涯、
そして安政三年(1856)〜
安政四年にかけて行われた
蝦夷地・樺太の探検の記録が、
文章と地図によって案内されています。
蝦夷地のことを身を持って
体験していた島義勇だからこそ、
北海道の開拓判官として、
札幌の町を構想できたのでしょう。

寄附者の碑を見ると
北海道からの支援も確認できます。

正面。

台座裏。
以下、全文です。
「明治維新150年を記念して、
明治新政府において初代開拓判官として
北海道開拓に貢献した
佐賀藩士・島義勇を顕彰し、
島義勇の開拓者精神と北海道・札幌を
世界一の都市にしようとした
熱い「志」を今に活かし、
永遠に未来へと受け継ぐため、
島義勇之像をこの地に建立する。
この像は、安政三年(1856)九月、
佐賀藩十代藩主鍋島直正の命により
蝦夷地(現在の北海道)調査に旅立つ
若き日の島義勇の姿を表現している。
平成三十年(2018年)十一月十一日
肥前さが幕末維新博推進協議会
会長 山口祥義
銅像名 島義勇之像
寸法 高さ2.5メートル
原型制作者 徳安和博
銘板書家 山田博道」

凛々しいお姿。

お顔も精悍!

義勇さんの見つめる先は、
佐賀城の鍋島直政公の銅像、
そして、
その先には北海道があります。

悲願達成の瞬間(笑)

銅像近くで発見した銀杏の木。
妻も枝と一体化しております(笑)

義勇さんの銅像近くから
西堀の北側を撮影。

ここもまた素敵な
リフレクションスポットでした!
(続く)