大垣城(岐阜県大垣市)

 

たらい舟

関ケ原での東軍勝利後、

大垣城は東軍から攻められ、

開城しました。

その時、

「たらい舟」で、

城から脱出した親子の逸話から

大垣城では「たらい舟」という

イベントが行われています。

乗ってみたいような

怖いような・・(笑)

僕たちが行った日は

5月1日の平日でイベントは

お休みでしたが、

この「たらい舟」は大人気で、

予約は殺到しているようです。

東門

お城近くの駐車場に車を置き東門へ。

道路中央にある大垣城の案内。

東門と艮隅櫓。

案内によると、

「大小姓多聞跡」と

書かれていますので、

多聞櫓が艮隅櫓に続いていたのでしょう。

従って元々、

ここに門はありませんでした。

この門は「柳口門」の移設と書かれ、

大垣城内では唯一の

貴重な現存遺構のようです。

門内へ。

城内の緑が清々しい!

城内から見た東門(旧柳口門)

「大垣城(巨鹿城きょろくじょう麋城びじょう)」

案内を書き出すと、

以下になります。

「大垣城は天文四年(1535)、

宮川安定が築城した

(明応九年武腰尚綱の創建とも伝えられる)

といわれ、

大垣市内を流れる水門川の流れを

外堀に利用して築城されました。

慶長五年(1600)、

関ケ原の戦いでは、

西軍を率いた石田三成の本拠地となり、

その後、寛永十二年(1635)、

摂津(兵庫県)尼ヶ崎より

戸田氏鉄公が入城し、

戸田十万石の居城となり、

以降明治維新まで続きました。」

天守

コンパクトな城域で、

すぐに天守は見えてきます。

野面積みの石垣は、

戦国末期のものかも?

そして、

到着した僕たちを待っていたのが、

こちらの案内です。

「本日は休館日です」の

お達しです(汗)

GW真っ只中なので、

開いているだろうと、

完全に舐めていました。

こんな時、

即座に頭を切り替えるのが

旅を楽しむコツ、

なので次に進みます(笑)

「本丸・天守の変遷」

案内を要約すると

以下になります。

「元和六年(1620)天守は

三階建てから四階建てに改築されました。

東附多聞、西附多聞が付設され、

層塔型天守で、

白漆喰総塗ごめ造りでした。

国宝に指定されるも空襲で焼失。

その後、昭和三十四年再建され、

平成二十二年、天守と乾櫓を

戦災前の外観に近づける

改修を行いました。」

大坂の陣以降、

幕府の締め付けが厳しくなった後の

元和六年に天守を拡張できたのには

びっくりしましたが、

当時は譜代大名、石川家の居城だし、

大垣は要害の地でもあったので、

幕府の「OK]が出たのかもですね。

「関ケ原の戦い 大垣城」

石田三成は大垣城に入り

西軍の拠点とし、

当初は東軍、西軍ともに

大垣城が決戦地と考え、

家康は水攻めも考えていた事や、

その後の

江戸時代の拡張工事などの事が

書かれています。

天守外観近影。

おあむの松

ここから天守下を半周。

西門(城内側)。

この門の下にあるのが、

こちらの案内です。

「おあむの松」

「明治29年大洪水点」。

「おあむ」とは、

冒頭に書いた、

たらい舟で城から逃げたという

主人公の名前です。

まずは「おあむの松」を目指します。

400年以上前の逸話に出てくる松なので、

大きな松を探すもどれか分からず・・・

天守を眺めたりしながら

半分諦めたところに

石垣の前で、

「おあむの松」を発見!

ん?

なんか細い松ですね・・(笑)

案内を書き出すと

以下になります。

「関ケ原の戦いの際、

西軍を率いる石田三成の家臣であった

山田去暦の娘「おあむ」は家族とともに

西軍の拠点となっていた

大垣城に籠城していた。

時の大垣城には、

戦闘員としての男子だけでなく、

女子、子どももおり、

鉄砲玉の鋳造などに

従事していたと言われている。

関ケ原での決戦の後、

大垣城の戦いが始まり、

徳川家康率いる東軍の攻撃が

激しくなってきたある日、

東軍から矢文が届いた。

山田去暦はかつて

家康の手習の師匠であったため、

「今なら無事に城から抜け出せるよう

手配してあるので逃げよ」との

申し出であった。

「おあむ」は家族とともに

天守の西側にあった松の木に

縄をかけ、それを伝って内堀に降り、

堀に浮かべたたらいに乗って

無事に脱出することができたと

言われている。

この逸話は後に

「おあむ物語(おあん物語)」として

語り継がれ、

この松は「おあむの松」と

呼ばれるようになった。」

山田去暦さん、

かなり達筆だったらしく、

家康さんも習ったのでしょう。

「芸は身を助ける」とは

まさにこの事かな?(笑)

おあむの松の前の石垣にあるのが、

「大洪水点」です。

石垣に「線」と「文字」が

刻まれています。

標柱の横には、

三大州が氾濫したと書かれています。

三大州って、今で言う木曽三川

木曽川、長良川、揖斐川を

指していると思われます。

公園からの風景

ここで一旦城外へ。

戌亥櫓の横から下城。

戌亥櫓の横には、

「水之手門跡」の表示があります。

戌亥櫓と天守。

左から戌亥櫓、天守、西門。

戸田氏鉄とだうじかね騎馬像も見えていますが、

こちらについては、

次回大フューチャーして(笑)

する予定です。

西門から鉄門跡へ。

鉄門は内堀に架かる

廊下橋を渡った先に

配置されていました。

鉄(くろがね)門跡。

門の礎石は残っていますね!

ちなみにこの鉄門、

明治の廃城令で払い下げられた後、

現在は、各務原(かかみがはら)市の

旧中山道鵜沼(うぬま)宿に移築され、

現存しているのです!

なんか、鵜沼宿、

行きたくなりました(笑)

金森吉治郎の像

鉄門右横には、

金森吉次郎の銅像があります。

この方は、

治水事業で大貢献した人で、

先ほどの明治29年大洪水点を

「後世忘れないように」と

刻んだ人でもあります。

国土交通省中部地方整備局のサイトには、

「歴史に埋もれた治水の先人、

平田靭負ゆきえら薩摩義士の事跡を掘り起こし、

千本松原に義士の記念碑を

建設したのをはじめ、

薩摩藩主をはじめとした

治水神社の建立を企画して、

長くその功績をたたえるなど

(神社は昭和13年建立)、

義士たちを

「この堤は君の肉、この川は君の血」

とうたい、

その業績を広く伝えることに

貢献しました。」

このように書かれています。

僕たちも金森吉次郎さんのおかげで、

鹿児島市の平田靭負屋敷跡や、

治水神社木曽三川公園センター

旅することができたのです。

改めて、吉次郎さんに感謝ですね!

銅像の傍に造られた

麋城びじょうの滝」。

吉次郎さんの功績は、やはり「水」。

その意味で、

ここに「滝」を配置したのは、

素晴らしい判断でしたね!

 

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