春王・安王の墓/池田輝政陣跡

 

足利持氏父子に呼ばれた妻

「YouTube高校 / 日本史 」。

これは、

妻がよく見ている

ユーチューブチャンネルです。

僕たちがここを訪問する数日前、

たまたま妻は、

春王・安王の父、足利持氏と、

将軍足利義教が

戦った場面を見ていたので、

案内を読んだ時には、

妻はもうビックリ!

そして、感動・・・。

春王・安王の存在と

ここにお墓があることは、

「池田輝政陣跡」に

行きたいが為に偶然知ったこと。

きっと妻は、足利持氏さん父子に、

呼ばれたに違いありません・・・。

池田輝政陣跡へ

南宮大社の参拝を終え、

「池田輝政陣跡」へと向かいます。

しかし、

入口にはこんな表記が・・・

春王・安王の墓というのがあるのか・・・

この時はそのくらいの気持ちでしたが、

冒頭に書いたことが判明してからは

興奮してしまい、

池田輝政さんと、

主客転倒?になっていたかも

知れません(笑)

まずはお地蔵様たちに参拝。

春王・安王に関する宝物の案内。

お堂の奥がお墓群です。

春王・安王の墓と池田輝政陣跡。

春王・安王の墓

まずはお墓へ。

「県指定 史跡 春王・安王の墓」

案内を書き出すと、

「嘉吉元年(1441)鎌倉公方

足利持氏の遺児、春王丸(13歳)

安王丸(11歳)は、

結城合戦で捕えられ、

京都へ護送中、将軍足利義教の命により

垂井の時宗 金蓮時において斬られ、

ここに葬られた。

辞世の歌

夏草や青野が原に咲くはなの

身の行衛こそ聞かまほしけれ(春王丸)

身の行衛定めなければ、旅の空

命も今日に限ると思へば(安王丸)」

このようになります。

死の直前、

わずか13歳、11歳で、

これほどの辞世の歌を詠めるとは、

言葉がありません・・・。

右側は辞世の歌碑。

二人のお墓に参拝。

この時、

モンキアゲハが飛んできて、

数珠を持って拝んでいる

妻に寄り添うように

クルクルと飛び回っていました・・・

春王さん、安王さん、

喜んでくださったのかな・・・

池田輝政陣跡

春王、安王の墓を参拝後、

当初の目的(笑)

池田さんの陣跡へ。

戦前に建てられたであろう石碑。

「池田輝政陣跡」

案内を書き出すと

以下になります。

「織田信長の重臣・池田恒興の

家督を継いだ輝政は、

豊臣秀吉の主要な合戦の大半に従軍、

その功により、岐阜城主を経て、

三河国吉田(愛知県豊橋市)で

15万2千石を領していた。

また、

徳川家康の息女督姫を娶り、

家康とは娘婿の関係にあった。

関ケ原の戦いでは、

はじめから東軍に属し、

序戦で福島正則らとともに、

かつて領していた

岐阜城を攻め落としている。

本戦では南宮山を睨むように布陣し、

毛利秀元ら南宮山の西軍諸隊を抑える

重要な役目を果たす。

戦後はその功により大幅に加増され、

西国の要として姫路(兵庫県姫路市)

52万石に転封した。」

池田輝政は、

小牧・長久手の戦いで、

父恒興と兄元助が戦死したため

予想外に家督が回ってきたり、

秀吉の小田原征伐後、

北条氏直が高野山で亡くなり、

その正室だった督姫は、

数年後、秀吉の肝煎りで

輝政の正室となるなど

実力もさる事ながら、

「見えない強運」を

持っていた人でしょう。

その「強運の極め付け」は、

姫路藩主として輝政が築城した

姫路城だと思います。

幕末、鳥羽・伏見の戦い後、

新政府軍に

総攻撃されそうになったものの

寸前に回避できたり、

第二次大戦の姫路空襲では、

天守に爆弾が落ちたにも関わらず

不発で火災を免れるなど、

今も国宝として輝きを放っているのは、

輝政さんの「見えない強運」も

あるかもですよ!

 

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