2023/04/14

岡山城(令和5年3月)内覧編(2)

 

イメージカラー

岡山城の展示は、

創意工夫が素晴らしく、

中でも岡山城に関わる

城主三家それぞれのイメージカラーが、

実に心に入って来る色なんです!

宇喜多さんは緑色の山野を開拓し、

岡山の基礎を作った「緑」、

小早川さんは、

「違い鎌」家紋付きマントを

彷彿とさせる「赤」、

池田さんは明治維新まで

岡山を治めた安定の「青」。

やっぱり「色」って大切ですね!

2F 池田光政と綱政

ここでは日本で初めての

庶民のための学校、

「閑谷学校」を創設した池田光政と

その息子で、

大名庭園、後楽園を造った

池田綱政をフューチャーしています。

池田光政公についての案内。

岡山城の天守下を流れる旭川、

この氾濫には手を焼いた光政公ですが、

これを見事におさめたのが

百間川の建設です。

イラストを拡大してみました。

江戸時代前期、

こんな仕組みを考えて

ちゃんと造ったなんて、

すごいと思いますよ。

磯田さんの解説には、

「平成30年の西日本豪雨では、

この百間川が機能し、

洪水を逃れた」

こんなことが書かれています。

300年以上の時を越え、

江戸時代の叡智が

平成の岡山市民を

守ってくれたんですね!

そして、

この百間川に関わる二人の人物が、

こちらの方々です。

「名君に名臣あり

熊沢蕃山と津田永忠」

先程の百間川は、

熊沢蕃山のアイディアを

津田永忠が実践したと

書かれています。

この二人、

土佐藩で言えば、

野中兼山

佐賀藩で言えば、

成富兵庫茂安みたいな

立ち位置でしょう。

干拓も頑張った(笑)

池田光政さんの政治改革三本柱は、

1.自ら働く

2.家臣より領民優先

3.「ひと」を重視

この中で、

「家臣よりも領民」というのは、

双方が潤うようにという意味のようです。

現代の経営者においても

この3つは大切でしょう(笑)

こちらはお金持ちの姫様も

光政をバックアップしてくれたというお話。

池田光政の正室は、

徳川家康の孫、千姫の娘勝姫。

要するに家康の曾孫が奥様という事で、

要するに光政さん、徳川家とは

めっちゃ太いパイプがあるのです。

そんな訳で大洪水の際には、

家康の孫、千姫から

現代のお金で40億円ほどを

援助してもらったというものです。

羨ましいな~(笑)

頑張った津田永忠さんが、

光政さんから貰ったもの。

この箱の中に入れて

大切にしていたそうです。

「祖廟に飾ったと伝わる

木製揚羽蝶紋掛飾」

池田綱政の時代に使われた

家紋だそうです。

城主の間(再現)

3F それぞれの関ケ原

ここからが、

また見どころが多過ぎて、

時間がかかって仕方ありません(笑)

まずは宇喜多秀家さんの

関ケ原からスタート。

関ケ原の前にお家騒動で、

重臣を失っていた秀家さん、

戦う前から戦力はダウンしていたそう。

結果は西軍の負け。

しかし、逃げ足の早い秀家さん、

簡単には捕まらず、

遠く鹿児島まで、

まんまと逃走に成功しています。

秀家さん、生き延びる特技でも

持っているのでしょうか(笑)

そして、ここでも磯田さんの

解説がめっちゃ冴えています!

「徳川から来た男」

と題して、一人の人物をあげ、

負けたのに、

本多正純さんの親族だったことが幸いし、

戦後、加賀藩の家臣となり

なんと5万石を貰っているというお話です。

大名でもないのに、そんなに貰えて、

人生はやはり「人脈」ですね(笑)

「関ケ原の敗者、

寿命の勝者となる」

このキャッチフレースに僕も妻も感動。

めっちゃ前向きな表現じゃないですか!

とにかく秀家さん、

八丈島に流されてから

50年も生きているんですね!

磯田❜sEye 「岡山望郷」

八丈島に流された秀家様御一行を

金銭、物資で支えたのが、

奥さんの前田利家の娘、豪姫です。

やはりここでも人脈は最大の宝!

長生きした秘訣は・・・人脈かな?(笑)

そして最後に、

「豪姫は、秀家と二人の息子を案じながら、

会えずじまいでした。いま八丈島の海岸では、

秀家と豪姫の像が寄り添っています。

岡山城築城400年で造られたペア像です。

二人は遥かな時を超え、

仲睦まじく岡山の方角を眺めています。」

このように書かれています。

八丈島のペア像。

磯田さんの解説にもあった

花房家について。

案内を抜粋すると

以下になります。

「花房家は、豪姫の実家・前田家とともに

米を送るなど宇喜多秀家とその子孫の

八丈島での暮らしを支えました。

花房家は秀家の父・直家の時代から

宇喜多家に仕え、

家老職までつとめました。

しかし、有力家臣が宇喜多家を離れた

宇喜多騒動により徳川家康に仕え、

旗本となりました。」

花房家って関ケ原では東軍だったのに

ホントに律儀なんですね。

この後は、小早川さん、池田さんの

関ケ原なんですが、

長くなりすぎるので(笑)、

また次回ということに。

(続く)

 

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