桶狭間古戦場公園(名古屋市)
個性を出す
桶狭間の戦いの推定地として、
2つ目の訪問場所は、
「桶狭間古戦場公園」です。
最初に行った、
「桶狭間古戦場伝説地」と
何が違うのか?
それは、「見せ方」。
「どうせ(笑)昔のまま
当時の雰囲気が残っていないのならば、
いっそ、「造作物」で
訪問者を楽しませてやろう」
そんなサービス精神に
溢れた素晴らしい
演出がある公園なのです。
桶狭間古戦場公園へ
はざま公園の鷺之森碑で、
偶然にも白鷺に出会い、
信長とシンクロした僕たちは、
その感動も忘れるほどの
暑さと足の疲れを何とかごまかし(笑)
20分ほど歩いて
桶狭間古戦場公園へ。
住宅街を抜け、
緩やかな坂道を下ると、
そこが桶狭間古戦場公園です。
公園前にはこんな案内が。
今、歩いて来た場所が、
「おけはざま山」になるのかな?
公園入口。
真ん中の低い石碑の
案内を要約すると、
「昭和初期、公園近くを流れる
鞍流瀬川より発見されたもので、
正面には「桶狭間古戦場」
裏面には、
「文化十三年(1816)丙子五月建」
とあり、これが見つかったことで、
このあたりが、今川義元最後の地か、
戦いの中心地を標示したものと思われます」
このように書かれていて、
「桶狭間」推定地としての
物証の一つとも言えるかも知れません。
しかし、僕が注目したのは、
こちらの石碑に書かれた、
「陸軍大将 松井石根書」の文字です。
案内には、
「今川軍の先陣、松井左衛門宗信
(遠州二俣城主)の子孫、
松井石根が昭和八年五月(1939)
に古戦場跡を訪れたときに
揮毫したものです」
このように書かれています。
陸軍大将、松井石根は、
今もなお真偽が議論されている
南京事件の責任をとらされ
東京裁判で有罪となり
処刑されています。
松井左衛門宗信も、
桶狭間の戦いで、
討ち死にしていますので、
先祖も子孫もある意味、
一生を戦いに捧げたという事でしょう。
ジオラマ
冒頭に書いた「見せ方」ですが、
この公園全体が、
桶狭間の戦いのジオラマとして
戦いの経緯を疑似体験出来る
造りになっているのです。
解説板。
織田軍、今川軍、
そして今川の配下だった、
徳川軍(当時は松平姓)の
進軍ルートを再現しています。
公園全体。
大高道。
大高城。
丸根砦。
熱田神宮の
信長塀も再現されています。
鳴海城。
釜ヶ谷。
信長の発進地、清州城。
案内板と照らし合わせながら
体験すると、いっそう実感がわきます。
銅像
もう一つの見せる造作物が、銅像です。
左、織田信長、
右、今川義元。
織田信長アップ。
今川義元アップ。
史跡など
もちろん、造作物の他、
ここには史跡もあります(笑)
昔のおけはざま山周辺。
何となく古戦場の雰囲気がありますね!
案内。
今川義元公 馬繋ぎの「ねずの木」。
今川義元公の墓。
周辺の史跡などの見所。
桶狭間古戦場公園の周辺だけでも
一日かかりそうなくらい
多くの史跡があることが判明。
やはり再チャレンジも必要かな(笑)