桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)
二つの桶狭間
桶狭間の戦いといえば、
戦国時代の永禄三年(1560年)
少ない兵力の織田信長が、
その何倍もの大軍を率いた
今川義元を討ち取った戦いで、
多くの日本人が知っている
有名な出来事でしょう。
現在、桶狭間の戦いが
行われたとされる場所は二つあります。
一つが名古屋市緑区の
「桶狭間古戦場公園」で、
そして、もうひとつが、
豊明(とよあけ)市にある
「桶狭間古戦場伝説地」です。
どっちが正しい場所なのか?
そんなことはわかるはずありません(笑)
もう460年も前の出来事ですからね。
どちらにも行ってみて、
それぞれを感じて楽しめばそれが正解。
そんな思いを抱きつつ、
最初に訪問したのは、
豊明市の桶狭間です。
桶狭間古戦場伝説地へ
名古屋駅からはレンタカー。
高速道路の出口を間違ったため、
一つ先まで行ってしまい、
タイムロスをしたものの、
後から考えれば、この時間があったから
不思議な素晴らしい体験も出来たという、
いつもながらの「必然的タイムロス」でした。
「少々のトラブルはトラベルのうち」
この言葉、何度使っても
本当に利用価値あるな~(笑)
事前に調べていた駐車場に到着。
ここ、銀行なのに一般駐車が可能な、
本当に便利な駐車場なのです。
駐車場から徒歩ですぐの場所に、
桶狭間古戦場伝説地はあります。
お~ここか!!
バス停の名前も
「桶狭間古戦場伝説地」!
お邪魔します!
戦いの場というよりも
今はのどかな公園ですね。
僕の好きな石橋もあります。
どこから見てもやはり公園です。
が・・・
案内板を見て、
ここがただならぬ場所と判明(笑)
「桶狭間古戦場 石碑配置図」
なんと江戸時代に建立された
七つの石碑が紹介されています。
こちらが一番目の石碑。
案内によると、
「桶狭間の戦いで今川義元の
戦死した場所を示す、
最も古いものである。
明和八年(1771)、
尾張藩士人見弥右衛門桼(あつし)、
赤林孫七郎信之より建てられた」
また、古図が入った下の案内板には、
1705年には、
「塚」が描かれたことが示され、
そのそれぞれの塚の上に石碑が
建てられた事が書かれています。
なんか、この裏付けが本物っぽい?(笑)
今川義元の墓。
墓石は明治時代のものですが、
塚自体は、
江戸時代以前からのものだそうです。
弔古碑。
文化六年(1809年)
「津島の神官、氷室豊長によって
建てられたもの。
桶狭間の戦いを回顧する文と
往時を偲ぶ詩、
裏面には建碑の趣旨が彫られている」
このように書かれ、
下の案内には、
「この碑を建立する場所、
碑文については、尾張藩の許しを得て
建てられた。尾張藩の正論である」
ここが大切な所でしょうか。
江戸時代の歌人、香川景樹が
この地で没した今川義元の
気持ちをくみ詠んだ歌の碑文。
香川景樹をWikipediaで調べると、
作家の志茂田景樹のペンネームは、
この香川景樹の名前にちなむと
書かれています。
さらに、志茂田景樹氏は、
2014年、「キリンがくる日」という
絵本を書いて、
日本絵本読者賞を受賞されています。
「麒麟がくる」・・・まさかこの本の名前が・・
いやそんなことは無いか~(笑)
桶狭間で、こんな「きりん繋がり」を知るなんて
なんだか面白いですね。
道路を挟んだ反対側を散策。
道路に向かって沢山の仏像があります。
その中に建つのが、
「徳本の名号」という供養塔。
案内を要約すると
「江戸時代、文化文政の頃、
浄土宗の高僧、徳本行者が
この地を訪れ、敵味方の
戦死者の霊を弔うために
建てられたもので、
「南無阿弥陀仏」の六文字が
刻まれていまる」
このような内容です。
今川義元三百回忌(万延元年)に
建てられた今川義元仏式の墓碑。
漢字が読めません(汗)
どなたかのお墓でしょう。
ここでの最後に訪問は、
「お化け地蔵」です。
案内によると、
「嘉永六年(1853年)
尾張藩士が建立した。
地元には亡霊の
現れる話が伝えられていたが、
この地蔵尊の建立により
現れなくなったという」
このように書かれています。
今川義元の亡霊だったのか・・・な?