忍城(埼玉県行田市)
三成さんは頑張ったけど
戦国末期、
天正18年(1590)
小田原征伐の一環として、
忍城攻略を担当したのが
関ケ原の戦いで有名な石田三成です。
忍城は沼の中にある
多くの島々を曲輪とした、
天然の要塞のような「沼城」で、
何となくイメージ的に、
備中高松城みたいな水城だったからか
親分の秀吉は三成に「水攻め」を命じ、
高松城攻めと同じく、
長大な堤防を築かせましたが、
北条氏の本拠地、
小田原城が落城するまで、
忍城は持ちこたえ、その後、開城。
三成は頑張ったけど、結局、
「勝利」することは出来ませんでした。
恐らく、この頃の秀吉は、
イエスマンに囲まれ、
それを心地よく思い、
天下人としての自分を
過信していたのでしょう。
そうなるとトップの目はかすみ、
まともな指示が出来なくなります。
秀吉は、この小田原攻めから
亡くなるまでの8年間、
関白秀次や、
その家族を皆殺しにしたり
朝鮮出兵で、人心を失ったりと
前半生の秀吉の秀才ぶりからは
想像つかないほどの愚策ぶりは、
イエスマンに囲まれた
裸の王様のお手本のようなものでした。
やはり天は家康を選んだと
いう事なのでしょう。
忍城へ
今回の旅の
最後の訪問地が、忍城です。
遺構があまり残っていないのですが、
模擬櫓など見所は多々あります。
沼城だった頃の平面図と
現在の町並みを重ねた地図。
本丸土塁。
貴重な遺構の一つです。
ここから中へ。
高麗門。
「伝進修館表門」
案内を要約すると
「この門は、旧芳川家表門を
移築・復元したもので、
かつての藩校「進修館」の
表門であったと伝えられています。」
「解体時に発見された冠木柄表面の
墨書銘から、天保三年(1832)
に建立された事が判明しています。」
このようになります。
内部から見た高麗門。
奥へ。
土塀も復元されて
素晴らしい整備状況です。
御三階櫓の裏側。
ここを通って、表門へ。
表門内側。
忍城の由来。
案内を抜粋すると、
「忍城は文明十年(1478)頃、
成田顕泰により築城された。
天正十八年(1590)
石田三成による水攻めにも耐え、
「忍の浮城」とも称されたという。
寛永十六年(1636)時の老中、
阿部忠秋が入城し大改築に着手。
孫の正武の代にいたり、
御三階櫓の建設、
城門土塀などが完成したという。」
このようになります。
忍城櫓の石垣。
御三階櫓
一旦城外へ出て、
御三階櫓の外観を眺めてみます。
お~なかなか見応えありますね!
ここで僕が、
「(テレビドラマの)「陸王」で、
この御三階櫓
よく出ていたよね~!」
と妻に話したら、
「全く覚えていない」
とのお答えが(汗)
しかし、こんなものを見つけました。
やっぱり聖地です(笑)
正面から。
角度を変えて。
やはりここでツーショット。
忍城の鐘
お城に「鐘」はつきもの、
時を知らせる大切な道具ですからね。
御三階櫓から堀端を歩くと
鐘楼が見えてきます。
外観。
鐘楼への階段前にあるバス停、
その名も「忍城」。
城内から見た鐘楼。
この鐘は、享保二年(1717)
伊勢桑名藩主、
松平忠雅によって鋳造され、
文政六年(1823)松平氏が、
忍藩へ移封された時、
忍城へ移されたもので、
ここに吊るされたのはレプリカで、
本物は郷土博物館にあります。
鐘楼のアップ。
行田市郷土博物館
次に博物館へ。
横断幕は「足袋」推しです。
館内の展示物は撮影NG。
だた、三階櫓内など
一部はOKです。
三階櫓への廊下。
櫓からの景色は・・・
「のぼうの城」名所案内(広域図)
「石田堤」など、
忍城の攻防戦を描いた
野村萬斎主演の映画、
「のぼうの城」の舞台となった
場所の案内です。
「のぼうの城」名所案内(城内)
ここまでで、忍城散策は完了し、
一路成田空港へ。
本日のグルメ
行田名物、
「フライ」と「ゼリーフライ」の案内。
右側が「フライ」。
一見お好み焼きみたいに見えます。
左側が「ゼリーフライ」
小判型なので銭フライと言われていたのが、
ゼリーフライになったとか。
ともに文化庁の
「100年フード」に認定されています。