2021/08/19

小田原城(神奈川県小田原市)後編

 

観光資源

昔の小田原城天守跡の画像を見ると、

天守台石垣の上には観覧車があります。

お城が町の観光資源として

認識されていなかった頃でしょう。

そして、昭和35年、

小田原城の天守は復元され、

その後、平成のお城ブームも手伝い、

さらなる発掘調査と復元整備が進み、

今や小田原城は一大観光地として、

多くの方々が訪れています。

そんな中の二人が僕たちですが、

あまりお金を使わない(使えない)ので、

観光資源ゴミだけにはならないよう、

十分気をつけての訪問です(笑)

用意周到な復元

銅門(あかがねもん)を過ぎ、

いよいよ天守へ向かうぞ!

といきり立った(笑)その時、

見つけたのがこちらの案内です。

銅門 土塀模型。

なんと、本物を作る前に

シミュレーションの為に、

実際の模型を作って、

木材や白壁の土の収縮などを

調査しているのです!

以前見た、長崎県諫早市の

眼鏡橋の移築と同じ流れですね。

ここまで情熱とお金を注ぎ込んでいるとは、

何とも有り難く、そして見る者にとって

嬉しい限りです。

実際の模型。

こちらは模型の横に展示された

「伝 銅門礎石」。

やはり参考にしたのかな?

そして、出来上がったのがこちらです。

素晴らしい!

再建された方々に

改めて敬意を表します。

本丸東堀と常磐木橋

少し行くと、橋が見えてきます。

本丸東堀と常磐木橋の案内。

関東大震災で元の橋は石垣ごと落ち、

その後再建されています。

現在の常磐木橋。

橋の上から見た本丸東堀。

ここには菖蒲が植えられていますね。

数年前、

長崎県大村市の玖島城で見たのと

同じ感じです。

常盤木門

攻撃側からすると、

小田原城攻城最後の難所、

常盤木門。

僕たちには、

この階段が既に難所です(汗)

枡形なので、三方向から

撃ちまくられる事は必至(笑)

門を入って本丸へ。

天守

常盤木門をくぐると

見えてくるのが、提灯です。

北条氏の家紋、

三つ鱗があしらわれた

おだわら提灯に、

テンション上がりますね!

なんか、

この提灯欲しくなりました(笑)

お~出た~!天守!

案内。

天守は三回建てられていて、

今の天守は、宝永三年(1706)に

再建された天守台石垣の上に

建てられています。

斜め前から撮影。

天守へ正面から入る石段は、

丸岡城と同じ形式ですね。

中へ。

この時、僕たちを歓迎するかのように

天守から一羽の

モンキアゲハが舞い降りてきました・・。

妻のおばあちゃんの化身でしょう・・。

天守内部。

数年前にリニューアルされ、

素晴らしく綺麗な展示になっています。

江戸末期に造られた模型。

宝永二年(1705)の

小田原城再興碑。

三度目の天守が建てられた

前年のものですね。

「元禄16年(1703)

11月22日の夜の大地震により、

小田原城は天守をはじめ、

ほとんどの建造物が倒壊、焼失する

壊滅的被害を受けました。

この再興碑は、藩主大久保忠増による

復興の経緯を伝える貴重な資料で、

大正12年(1923)の

関東大地震の際、崩落した

天守台の石垣の中から

発見されたものです。」

地震からの復興碑が、

地震によって見つかる・・・

何とも言えない繋がりですね。

歴代藩主と家紋。

ジオラマは有り難い。

瓦には葵の紋が

入っていたのですね!

やはりここは譜代大名の地。

徳川とは深い繋がりなんでしょう。

ちょっとしたウンチクも掲示。

そして、天守最上階へ。

小田原城は天守高欄を

一周出来、またネットなど

遮るものもないので、

景色を大いに楽しめます。

(本来、高欄は無かったそうですが、

復元時、観光の為に付けられたとか・・)

西側の眺望。

右端に見える台形の平坦地は、

「八幡山古郭」という

北条氏時代にあった

本丸とは別の主郭です。

「街中の名城 廃城をゆく7」

という雑誌によれば、

「本曲輪、西曲輪、東曲輪などからなり

発掘調査では障子堀や

陶磁器が確認されている。」

このように書かれています。

南西側、石垣山城方面。

逆に石垣山城から見た、

小田原城天守はこんな感じでした。

こうやって双方向を比べると、

やはり秀吉の心理作戦、

凄かったなんだと感心します。

南側、相模湾の眺望。

南から西へ動画を撮影。

東側の眺望。

北側の眺望。

小田原駅方面です。

摩利支天

天守最上階内部には、

小田原城天守にあった

摩利支天の間を復元してあります。

先程の模型を元に、再現したとか。

案内をかいつまんで書くと、

「大久保忠朝が

貞享3年(1686)に

佐倉藩から小田原藩に復帰した際に、

天守に祀ったとされています。

「御天守摩利支天」と呼ばれ、

元禄16年(1703)の

地震において

焼失をまぬがれたことから、

更に崇敬を集めました。」

このように書かれています。

部屋の全貌。

摩利支天の案内。

摩利支天(真ん中)。

天守型厨子。

「摩利支天が納められていた厨子で、

小田原城天守の姿を

模したものと思われます。

一層部分には、観音開きの扉があり、

内部には金箔が

貼られています。(後略)」

このように書かれています。

天守型厨子とは、

超レアなものを

拝見せていただきました!

最後に天守バックにツーショットで〆。

本日の巨樹

帰りがけに見つけた

小田原市天然記念物のイヌマキ。

案内によると

「この木は幹周り4.5mに及び、

市内で最大のイヌマキです。

主幹は左巻きにねじれ、

地上5mのところで

四支幹に分岐しています。

(中略)台風で北側の大枝が折れ、

(中略)現在の形になっています。」

このように書かれています。

主幹を失っても、

とにかく今残ってくれているのが、

めでたい事ですね。

本日の名産品

天守に展示してあった

小田原かまぼこコレクション。

海が近いからでしょうか?

小田原は蒲鉾が特産品だったのですね!

 

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