2017/12/27
大山積神社(大分県日出町)
久留島藩の執念、二つの城
これは何の写真でしょう?
ほとんどの方が「お城」
と答えるのではないでしょうか。
見るからに攻めにくそうな石垣ですよね!
でも正解は….
「神社」です(笑)
正確には大分県玖珠(くす)町にある
豊後森藩(ぶんごもりはん)の
陣屋の一部です。
藩主の出身地である
愛媛大三島の大山祇神社を
勧請して作られた「末廣神社」
(すえひろじんじゃ)
幕府には神社の改築をするという
届けを出して、
こんなものを作ってしまうなんて、
いったい何者なんだ?
と
豊後森藩に興味津々です。
発端は関ヶ原の戦い
近々公開されるV6、
岡田准一主演の映画「関ヶ原」。
そう言えば、以前も「永遠の0」
「海賊とよばれた男」と
岡田准一主演の映画ばかり観てるな〜(笑)
今の映画館は50歳以上の夫婦だと
ペア2,200円で入れるので、
お金がない僕たちにも
ハードルが低くなっています(笑)
さて、20年くらい前だったでしょうか、
僕は司馬遼太郎の「関ヶ原」を読み、
テレビドラマ化された番組も見ました。
その時、石田三成役だった加藤剛のセリフ
「義が不義に負けるはずはない」
(こんな感じのセリフでした)
これには本当に考えさせられました。
「人は義で動くのではなく利で動く」
これも道理です。
そして、滅びるのか、繁栄するのかは
義とか、利だけではなく、
「天が決める」のではないかと
思うようになりました。
世の中から必要とされる人が残り、
もはや必要がないとされる人は滅ぶ。
武家でなくても企業も同じ。
だから僕の会社は滅んだ(笑)
豊臣家が滅んだのは、
「徳川に任せなさい」という
天の采配があったのかも知れません。
そんな「義」とか「利」が混じり合った
人間ドラマが凝縮されたのが
関ヶ原の戦いです、
関ヶ原で西軍(石田三成側)についたのか、
東軍(徳川家康側)についたのかで、
大名や家臣の運命は全く変わりました。
そんな石田三成側の西軍で戦ったのが、
村上水軍だった来島(くるしま)家。
敗軍となった来島家ですが、
徳川方と縁故関係があり
何とか改易されず、生き延びました。
ただ、活躍の場が「海」だった来島家を
二度と海で暴れさせないためなのか
海からはほど遠い山の中、
今の大分県の玖珠(豊後森藩)に
転封(移動)となり、
名前も秀吉から貰った「来島」から
家康に気遣って「久留島」へ変えました。
まあ、西軍では処刑されたり
取り潰しになった武将も多くいたのですから
久留島さんはこれでも
かなりラッキーですよね!
大山積神社へ
豊後森藩は石高が低い大名で、
お城を持つ事を許されないので、
「陣屋」という建物で
藩の運営をしていましたが、
「城」への執念が実ったのが、
冒頭の写真で紹介した玖珠の陣屋にある
「末廣神社」と今回行った、
日出町(ひじまち)の「大山積神社」
(おおやまづみじんじゃ)です。
日出町は豊後森藩の「飛び地」としての
領地であったところで、
ここから海路で
参勤交代をしていたそうです。
国道10号線から山を登って、
細い道を抜けると、
突然立派な石垣が見えて来ます。
車一台分くらいの幅の道を進みます。
一応(笑)神社なので鳥居もあります。
これは参道というよりも
まさにお城への登城口
高くて立派な石垣です。
敵が簡単に登れないように
作っているところもお城ですね!
ここまで堅牢なものは
神社には必要ないのでは?(笑)
登城口いや参道(笑)を登り切ったら
神社の境内です。
拝殿。
まずは、参拝
賽銭箱には愛媛県大三島にある
大山祇神社と同じ「三」の御神紋。
本殿の裏には巨石があり、
これもご神体となっています。
ご神体の下には小さな祠が
祭られていました。
巨石の横には御神木。
境内社。歴史を感じさせますね。
眺望も素晴らしく、
敵の動きを察知しやすい場所ですね!
ここから海を観て、
瀬戸内海で暴れていたころを
懐かしんだりしたのでしょうか。
いつものツーショットも忘れずに(笑)
近くにも石垣らしきものを発見。
石を積み上げたように見えるので、
恐らく石垣の一部だったのでしょう。
玖珠から日出に抜ける
参勤交代用の道があったと
聞いていたので散策。
定かではありませんが、
この道だったような気がしました。
結局、見た目は、
「一国二城」の主(あるじ)になった
久留島氏、
もし関ヶ原で東軍についていたら
こんな素敵なエピソードは無かったはずで、
僕たちも今回の「お城」?巡りは
出来なかったことでしょう。
今日の癒し
大山積神社境内の燈籠の
丸い穴から撮影した
日出城の光景に癒されました。
「く」の字の真ん中の
折れ曲がった形のあたりがお城です。
お城を持てない小藩の久留島の殿様は
ここから日出城を見下ろして
何を思っていたのでしょうか?