大刀洗飛行場の遺構

 

平和

戦争遺跡を巡っていると

「平和を祈念」とか、

「恒久平和」など、

平和という文字を良く見かけますが、

ウクライナの惨状を目の当たりにすると

戦争をしないで、

平和でいられるのは、

相手の意思次第という事がよく分かります。

日本が平和を欲し、

周辺国の気持ちも

日本とは戦いたくないという

絶妙なバランスが

未来永劫続いて欲しいものですね。

憲兵分遣隊舎の煉瓦塀

大刀洗平和記念館から

原神社を巡り、

付近に点在する大刀洗飛行場の

遺構巡りをしながら

菊池武光の銅像が建つ

大刀洗公園を目指します。

最初の目的地に到着。

「憲兵分遣隊舎の煉瓦塀」

案内を抜粋すると

「大正八年(1919)

大刀洗飛行場が

10月に開隊したのとほぼ同じ12月に、

久留米憲兵隊大刀洗分遣隊として

発足しました。

(中略)

今でも煉瓦塀敷地内に、

隊長官舎や厩舎跡が残っています。

(この敷地は民有地です。

勝手に入らないでください)」

このようになります。

100年前に造られた塀が、

単なる遺構ではなく、

民家の塀として、

今も現役で活躍中というのに

感動してしまいます。

案内どおり、

中には入っていません(笑)

外観のみの見学です。

慰霊碑

次は慰霊碑へ。

もうすぐ到着。

慰霊碑(左)と

西日本航空発祥之地碑。

まずは、こちらにご挨拶。

案内を抜粋すると

「此地は、南朝の忠臣

菊池武光公一族の古戦跡で、

大刀洗と称する

大刀洗飛行隊は

大正八年所澤より移駐し

飛行第四大隊が誕生。」

以下その歴史が綴られ、

「基地発足以来、死生を共にした

幾多軍官民の栄誉と鎮魂をねがい

国家の恒久平和を祈念するため

有志相寄り茲に建立す」

このように書かれています。

そして、慰霊碑へ。

慰霊碑に参拝。

「時計台跡」

案内を書き出すと、

「この白い慰霊碑はもともと

飛行第四聯(戦)隊

(昭和十五年から飛行学校)の

本部庁舎前庭に時計台として

設置されていたもので、

当時から多くの隊員たちに親しまれ、

この前で記念撮影なども

多く行われていました。

戦後長く放置ざれていたものを

「大刀洗会」によって

慰霊碑に改修、

追悼のシンボルとして

現在に至っています。」

このようになります。

大刀洗平和記念館で見た映像でも

この「時計台」が写っていたので、

それを妻に話してみると

「ぜんぜん覚えてない!」と

予想通りのお返事でした(笑)

改めて斜めから。

この文字は、

戦前からのものでしょうか?

軍人としての心構えが

簡潔な文字で刻まれています。

そして、さらに上を見ると・・・

水と刀の鍔(つば)です。

菊池武光が川で太刀を洗った故事と、

楠木正成の家紋「菊水」が、

関係しているのでしょうか。

「昭和三十二年十月建立

原地蔵軍友會」

このように書かれ、

原地蔵軍友會が建てた

慰霊碑というのがわかります。

平成五年十月の合祀。

こちらには「大刀洗會」と刻まれています。

先程の案内からすると

原地蔵軍友會が大刀洗會と

改称しているようです。

飛行第四聯隊(飛行学校)正門

慰霊碑のすぐ近くにあるのが、

古い門柱です。

レンガとコンクリ造りの

ごっつい門ですね。

「飛行第四聯隊(飛行学校)正門」

案内を書き出すと、

以下になります。

「大正八年(1919)当初は

大刀洗飛行場にて開隊した

「飛行第四聯(戦)隊」の正門として

長く使用されました。

飛行第四聯隊が中国大陸や

南方へ出撃する時は全てこの門をくぐり、

また帰還しました。

しかし聯隊が先の大戦を控え、

熊本県菊池へ移動した後の

昭和十五年(1940)秋から

その跡に開校した

大刀洗陸軍飛行学校・本校の

正門として使われました。

もともとは原地蔵公民館北側の

交差点に設置されていたものです。」

恐らく、慰霊碑とともに

見学出来るように

移設されたのでしょう。

監的壕かんてきごう

少し歩くと、

監的壕の案内が見えてきます。

「監的壕」

案内を書き出すと、

「大刀洗飛行場の

南側にあった池のほとりに

設置されていた建造物で、

具体的には、

別の飛行機が曳航している

射撃用の「吹き流し」に向かって、

実弾を使って射撃訓練をする

戦闘機や練習機の着弾を、

この中に入った観測員が

双眼鏡で確認していました。

現在ではこの場所に移動されています。」

このように書かれています。

吹き流しを曳航する飛行機の操縦士、

間違って撃たれるかも(汗)

なんて考えながら

飛んでいたんでしょうか・・・

訓練も命がけです・・・

ここから奥へ。

監的壕。

思うに、流れ弾にあたる事を想定し、

重防御のコンクリの塊を作ったのでしょう。

やはり監的も命がけだったのですね・・・

監的壕の正面。

今日のマンホール

歩いていて見つけたマンホール。

筑前町の町花は「藤」かな?

 

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