清水谷製錬所跡(石見銀山)
ステップアップの地
清水谷製錬所について調べているうちに
Wikipediaの中で、
岡山県岡山市の「藤田」という町名に
行き当たりました。
これは清水谷製錬所を創業した
藤田伝三郎氏の苗字「藤田」から
とって付けられています。
なぜ個人の名前が
町名になったのかと言えば、
藤田さんが岡山県の児島湾干拓を
成し遂げた恩人だからです。
これは藤田さんの残した功績の
ほんの一部ですが、
干拓事業とほぼ同じ時期に携わった
石見銀山の清水谷製錬所は、
不採算事業で、
あっという間に創業停止しています。
大企業ですから、
成就した事業もあれば、
そうでないものもあり、
成し得なかったものは、
次なる会社繁栄の礎となったはず。
ここ清水谷製錬所は、
そんな藤田さんの
ステップアップの地に
なったのかも知れませんね!
清水谷製錬所跡へ
龍源寺間歩から、
石見銀山公園への道すがらにある
数々の見所の中でも
恐らく一番大規模なのが、
目指す清水谷製錬所跡でしょう。
メインの道路からは150m。
右にはちょっと古そうな石垣は、
江戸時代のものかも?
この切り通しを抜けると・・・
お〜あった〜!
これは壮観ですね〜!
一瞬、岐阜県、岩村城の
六段石垣を思い出しました。
ちなみにこちらが
岩村城の石垣です。
やっぱり似てますね!
話は清水谷製錬所跡に戻って、
さらに正面から眺めてみます。
なんか、要塞のようにも見えるし、
天空の城ラピュタっぽくもあるし、
魅力満載の遺構です。
散策
まずは、案内を確認。
「清水谷製錬所跡」
説明文を書き出すと、
以下になります。
「江戸幕府による支配が終わり、
明治時代前半頃の石見銀山では、
極一部の既存の坑道を採掘するといった
地元住民による小規模な
鉱山経営が行われていましたが、
本格的な銀山の再開発は、
明治19年(1886)に
山口県萩市出身の藤田伝三郎が起業した
大阪の藤田組(現在の
DOWAホールディングス株式会社)
による採掘権の取得に始まります。
藤田組は、仙ノ山南側の本谷地区の
福石鉱床の金銀含有率と量に着目し、
明治27年(1894)に武田恭作氏
(東京帝国大学治金学科卒)の設計による
近代的な製錬所の建設を開始し、
当時20万円(現在の終十億円に相当)の
巨費を投じて翌年に完成、
4月から操業を開始しました。
古写真や現地の状況からは、
福石鉱床から採掘した鉱石が、
既存の坑道を拡張した本谷の金生坑から
清水谷の蔵之丞坑まで800m運ばれた後、
トロッコ道を経て選鉱場で選鉱され、
さらに製錬所の最上段まで
トロッコで運んでいた状況を
窺うことができます。
しかし、鉱石の品質が予想より悪く、
また設備の製錬能力も
充分でなかったことから不採算となり、
この施設は
明治29年(1896)10月に
開始からわずか1年半で
操業を停止しました。」
まさに「損切り」、
藤田伝三郎さん、決断が早い!
「スピード」こそ企業繁栄の元ですから。
こんな詳しい案内図もあって、
有難い限りです。
左側に「清水寺跡」とあります。
ここへ来る前に参拝した清水寺は、
釜屋間歩の発見者で、
徳川家康さんに謁見も許され、
家康さんからお土産まで貰った(笑)
安原伝兵衛の菩提寺。
そのお寺が元々あった場所ですね。
安原さんは岡山県早島の出身、
冒頭に書いた児島湾干拓地の
岡山県藤田とは、
お隣同士のような近さです。
時を超えて二人は
繋がっているのかもですね!
まるで城巡りのような散策路。
レンガの遺構。
ズームで撮影。
頂上付近はまるで山城。
ここからは木々が遮って、
景色はあまり見られませんが、
少し下ると視界が開けてきます。
石垣上からの清水谷製錬所跡。
石造の穴には入れませんが、
近くまでは行けます。
正面。
さらにアップ。
ここからの眺望。
穴と共にツーショット。
巻石垣?
散策の最後に、
鳥取城の天球丸の巻石垣を発見!?
いや、
巻石垣を連想させてくれる石垣です。
(鳥取城な未訪問なので画像は無し)
丸い感じが似ています。
右からだと切れ目がありますが、
反対側からだと・・・
お〜間違いなく「巻石垣」ですね!
鳥取城の巻石垣は
丸い形状をした石垣を積んで
本体の石垣が崩れるのを
補強したものですが、
ここでの操業期間は一年半ほど、
補強するなんて不要だったはず。
だとすれば、これは何でしょう・・?
謎のまま散策は完了です(笑)