新切間歩(石見銀山)

 

名前のある間歩

間歩(まぶ)と呼ばれる

石見銀山の坑道は、

600〜700ヶ所ほどありますが、

「中に入れる間歩」は二つ、

そして「外から見られるだけの間歩」も

恐らく数十ヶ所くらいでしょう。

その「見られる間歩」の中でも

「名前のある間歩」は

さらに少なく、

多くは番号のみになっているようです。

遊歩道

佐毘売山さひめやま神社を参拝し、

少しづつ銀山地区の東側、

大森町の中心を目指しつつ、

散策を続けます。

遊歩道。

レンタサイクル置き場。

銀山無縁佛舎

歩いていると、

左側に何やらお堂のようなものが

見えてきました。

「銀山無縁佛舎」と

書かれていますので、

銀山で亡くなった無縁仏を

慰霊する佛舎でしょう。

石見銀山に関わり、

歴史を紡いて下さった

幾多の名も無き方々に感謝しつつ

しっかりお参りし、散策を再開。

吉岡出雲墓

銀山川に沿って歩いていると

川向こうに何かが見えています。

「史跡 吉岡出雲墓」と刻まれた

石碑です。

近くの橋が通行止めだったので、

近づくのはあきらめ、

川の手前から遥拝することに。

ズームで撮影した案内を書き出すと

以下になります。

「吉岡隼人は、

毛利家の銀山附役人を経て、

関ケ原の戦の後に、

徳川家康の命令で石見に下った

大久保長安に召し抱えられ、

銀山の採銀経営を勤めた人物である。

功績により慶長六年(1601)に

江戸で家康にお目見得し、

銀杏葉雪輪散辻が花染胴服と

帷子(国指定重要文化財)を拝領、

「出雲」の名を与えられた。

その後も長安に重用され、

慶長十九年(1614)に亡くなるまで、

伊豆、佐渡などの金銀鉱脈の発見や、

採銀技術の普及指導を行った。

この墓は旧極楽寺境内にあり、

吉岡家が文化十年(1813)に

再建したものである。」

佐渡金山にまでも

関わっていたとは、凄いですね!

「芸は身を助ける」なんて言いますが、

吉岡さんは、

銀山の「エキスパート」だったことで、

毛利氏から徳川氏の支配となっても

失職することもなく、

再就職先でも重宝がられたのでしょう。

無論、本人の努力や、

人間関係を構築する能力もあったのは、

間違いないとは思いますが。

石段の上方、

旧極楽寺境内のお墓を遥拝。

新切間歩しんきりまぶ

さらに銀山川の下流へ。

川の向こうが、

「見られる間歩」の新切間歩ですが、

飛石をジャンプしながら

川を渡る必要があるので、

妻はここから見学し、

僕だけ川を渡ることに。

新切間歩は右の穴です。

案内を

抜粋・要約すると以下になります。

「ここは、幕府代官所直轄の

御直山おじきやま」と呼んだ間歩一つで、

正徳五年(1715)、

代官鈴木八右衛門のとき開発し、

最初は疎水口(水抜き坑)として

掘ったが、途中で鉱脈が見つかり、

銀の発掘が行われた」

ブログを書いていて、

鈴木八右衛門さんが気になって

ネットで調べると、

彼は、石見銀山に赴任する前の、

三河代官(愛知県豊橋市)時代に

農業用水のため7000坪の大池を造り、

今日に至るまで、

名を残し、顕彰されている人物でした。

文政六年(1823)には、

墓碑も建てられ、現在も

大切にされているようです。

鈴木八右衛門さん、

「水」との相性が抜群だったことで、

疎水口を掘って、銀の鉱脈まで

引き当てたのかも知れませんね!

新切間歩を背にして、

銀山川の向こう岸で待つ妻を撮影。

「さあ、私の元へ戻っておいで!」

そんなポーズかな?

いや、

「ストップ!そこから動かないで!」

こっちが正解かも?(笑)

今日の一枚

遊歩道を歩いていると、

日本国旗に出会いました。

祝日でもないのに国旗掲揚とは、

なんかテンション上がりますね!

 

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