しとどの窟(神奈川県湯河原町)
海辺と山奥
「しとどの窟」とは、
治承4年(1180)、
源頼朝が石橋山の戦いで敗れ、
隠れ潜んだ岩窟のことを言います。
その窟ですが、
妻が「しとどの窟」に行きたいと言った時、
調べると、「しとどの窟」というのが、
全く違う場所に、二つある事を認識。
という訳で、どっちにも行く事に・・・
その一つは石橋山古戦場から
ほどない距離の
真鶴半島の海岸沿いなので、
そちらを先に見学し、
山奥に位置する湯河原町の方は、
伊豆山神社参拝後、
旅の一日目最後の訪問地となりました。
頼朝を匿った土肥実平
「頼朝御一行様を匿った人」。
それが、土肥実平という人物です。
教科書には出てこないけど、
テレビドラマでは出る事もある人(笑)
伊豆山神社から車で約40分、
「しとどのいわや」バス停前の
駐車スペースに到着。
「しとどの窟」と土肥実平との関係を、
こちらの案内で知る事が出来ます。
広域図なので、
一部をトリミングしてみます。
しとどの窟、土肥城址の位置関係。
領主、土肥実平の城である
「土肥城」から下り、
さらに「谷底」に位置するのが、
頼朝さんたちが隠れた「しとどの窟」です。
こうして見ると、土肥さんの存在が、
いかに貴重なものであるかが、
よ~く理解出来ますね。
駐車場から土肥城までは、
徒歩20~30分位。
しかし谷底に行かなきゃいけないので、
僕たちはここから
お城を遥拝するのみです(笑)
こちらにも土肥さんが登場。
「頼朝は、土肥実平に導かれて
椙山(湯河原町の山中)に隠れた」
昭和17年8月23日建立、
「土肥郷椙山鵐ノ窟之碑」。
超訳すると
「頼朝に天下を取らせたのは、
箱根外輪山の複雑な地形と、
土肥氏の功績である。
そんな事を想起しながら
昭和10年2月地元民20余人と
茂みの中に入り調査し、
その感慨深い思いをこの碑文とした。」
こうなります。
土肥さんの存在はやはりデカイです(笑)
谷底へ
しとどの窟は、
簡単に言うと、谷底にあるので、
行きは超下り、
帰りは超上りという、
「逆登山」コースとなります(汗)
駐車場近くのトイレ横からスタート。
この建物は廃墟に見えますが、
トイレだけは現役だそうです。
(僕たちは不使用)
少し行くと「城山隧道」があります。
トンネルをくぐり終わると、
すぐ右手が、
谷底へのエントランスです。
ここまで車で来れたかも?
そんな事が頭の隅をよぎったのは、
体力消耗のアラームが
鳴ってるからでしょうが、
そんな体力さんを無視して
これから敢行されるのが、
谷底往復の修験者的体験です(汗)
お地蔵様にも
体力が持ちますようにとお願い(笑)
「桜郷史蹟由来」
超訳すると
「この地点一帯は
山伏たちの行場であった。
この土肥城の城山は、
治承四年八月二十四日、
源頼朝の堀口合戦の古戦場で、
谷底のしとどの窟は、その時、
頼朝が隠れた遺跡である。
また、ここは山伏に関する聖地で、
地蔵信仰、観音信仰、
弘法大師を崇敬する
大師信仰の遺跡も多い。」
やはり、
「谷底」って書いてあります(汗)
谷底へ出発!
無数の弘法大師像に遭遇。
弘法大師像は、
山裾に散乱していたものを
ここに移設したそうです。
あと300メートル。
所々にある、この案内で、
どれだけ励まされた事か!
さらに谷底へ・・・
お~あと80メートルだ~!
ここが窟かと思いきや、
しとどの窟はもう少し先です。
着いた~!
案内を超訳すると
「頼朝は土肥実平の館で作戦をねり
平家追討を兵をあげたが、
「石橋山の戦い」で敗北、
一旦、土肥に戻ったが、
その後の「堀口の合戦」でも敗れ、
土肥実平の守護と導きのお陰で、
人の知らない谷底の窟に5日間潜伏。
その後。平家を打倒し、
鎌倉幕府成立。
実平の功績を称えるため、
昭和五十五年、湯河原駅前に、
実平の銅像を建てた。」
このようになります。
もう一つの案内。
この先の窟へ。
まずは、
苔むしたお地蔵様にご挨拶。
お~これは凄い!
よく絵やテレビで見る感じの
頼朝の隠れ家ですね!
昔はもっと深かったそうですが、
そうであれば尚更
見を隠すにはもってこいの場所で、
頼朝さんの存在を身近に感じます。
動画でも撮影。
南無阿弥陀仏の石碑。
江戸時代のものでしょうか・・・
石仏群に参拝し、
散策は完了です。
帰りは登りまくり(汗)
何とか入口に到着。
谷底までの往復で約40分、
思った以上に僕たちの体力は
残っていたようです(笑)
駐車場に戻ると、
雲の間から青空が見えています。
土肥実平さんも頼朝さんが
僕たちにくれたご褒美かな?(笑)