小松帯刀銅像(鹿児島市)

 

鹿児島中央公民館

西郷隆盛銅像小松帯刀こまつたてわき銅像が建つ

広場の真ん中あたりには、

鹿児島中央公民館があります。

めっちゃレトロな外観、

なんとこれが、公民館なのですよ!

元々は、「鹿児島市公会堂」と言い、

昭和2年、

昭和天皇御成婚記念として建てられ、

第二次世界大戦末期の空襲で、

公会堂の内部は焼けたものの

外部は無事だった事で修復され、

後に、鹿児島中央公民館となり、

建立から100年近く経った今も

現役で使われている「幸運の建物」です。

小松帯刀の墓(回想)

小松帯刀で思い出に残るのは、

今から8年ほど前の2018年、

通りすがりで妻が見つけた

日置市のお墓に参った事です。

こちらがそのお墓で、

菩提寺の園林寺(おんりんじ)自体は、

廃仏毀釈で廃寺となっていますが、

墓域は残され、

小松家一族が同じ場所で眠っています。

小松帯刀銅像

西郷銅像撮影ひろばから

公民館東端の銅像へ。

銅像正面。

「明治維新の推進者

小松帯刀像銘文」

「この像は京都二條城会議で

真っ先に筆をとって署名し、

将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、

王政復古を実現させた小松帯刀の

功績をたたえる像である。

時に小松三十三歳・慶應三年

(1867)十月十三日であった。」

「小松帯刀像」

以下、全文です。

「小松帯刀は1835(天保6)年、

喜入領主肝付家の三男として生まれ、

20歳で吉利(日吉町)の領主

小松家の養子となり、

小松帯刀と名を改めました。

子供の頃から学問や武芸にすぐれ、

27歳で家老となり、

西郷隆盛や大久保利通などを

重要な役目につけました。

寺田屋事件、生麦事件、

薩英戦争を乗りきり、

薩長同盟を結ぶなど

明治維新の向けて活躍しました。

維新後も外交官などの要職につきましたが、

34歳で亡くなりました。

この小松帯刀像は、

慶應3年(1867)に、

15代将軍慶喜が、

二条城に諸大名を集めて、

政治の権力を朝廷に返還(大政奉還)

すべきかどうかを問うたとき、

薩摩藩の城代家老であった小松帯刀が

「大政を奉還すべき」として

他藩にさきがけて記帳したときの様子を

イメージして造られたもので、

三公像(島津斉彬、島津久光、島津忠義)

の建つ、照国神社を向いて

建立されています。」

視線の先には照国神社が・・・

最後はお顔アップ。

幕末から明治維新へ全力で駆け抜け、

そして維新直後、

病で儚く散っていった小松帯刀。

その無念さと未来の日本を思う気持ちを

この表情に感じてしまいます・・

 

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