西郷屋敷跡/徳の交わり銅像

 

きっかけは山形県

西郷屋敷跡を訪問した理由はただ一つ、

「徳の交わり銅像」を見る事です。

僕たちは、令和6年(2024)の夏、

山形県酒田市の南州神社に参拝し、

徳の交わり銅像」を見て、

鹿児島と庄内藩(山形県酒田市)との

強い絆を感じ、同時に、

鹿児島にも同型の座像がある事を知り、

機会を見つけて「両参り」を

コンプリートしようと画策(笑)

していました。

こちらが酒田市、南州神社の像で、

とても大切にされています。

西郷屋敷跡(概略)

市内中心部は駐車場を探すのに

一苦労する場合がありますが、

ここではラッキーな事に、

すぐ隣のコインパーキングに空きがあり、

駐車場問題は即解決!

公園として整備された屋敷跡へ。

案内。

「武村の吉」

以下全文です。

「生命もいらず名もいらず

官位も金もいらぬ人」

「遣韓使節をめぐる政争に敗れた

参議西郷隆盛が、決然と辞表を提出、

東京を退去したのは1873年

(明治6)10月23日のことでした。

鹿児島に帰った西郷は

武村の自邸にひきこもり、

自らを「武村の吉」と称して

農業を始めたのです。

肥桶をかつぎ、鋤鍬をとり、

時には犬13匹をひきつれて

狩や湯治に出かけました。

多くの巧臣が維新の目的を忘れ、

ぜいたくに溺れる中にあって、

西郷は少しもおごることなく、

質素なつくりの屋敷に巨大な松の木だけが

自慢だったといいます。

また屋敷内には、大島時代に知りあった

書家・川口雪蓮を同居させ

近隣の若者に教育の機会を与えました。

ところが、

時の声はそんな西郷に

のんびりとした余生を許さず、

西郷を慕って続々と帰郷する

若者たちに担ぎだされます。

求めらるま吉野開墾社や私学校を設立。

西南戦争は西郷がこの武村に戻って4年後、

夢をかけた

私学校徒の暴走によって始まるのです。」

「1875年(明治8)、

庄内藩(山形県鶴岡)から

家老菅実秀すげさねひでとともに訪れた石川静正の

薩摩紀行によると、

「囲いは柴垣にて、細き柱の門に、

小さな木札に西郷吉之助とありて、

右手は物置小屋猟犬はここにつなぎおかれ、

左手は戸の口にて土間になり、

玄関はなし、いつも庭の方へ廻りて

御座処に上りたり、

御座処の前庭には、

大きなる松45本あるのみにて、

遠く市街をこして桜島を望む、

景色絶佳なり。

室内には、四方の壁に西洋の銅版画の

ワシントン・ナポレオン・

ぺートル(ピョートル大帝の事か?)・

ネルソンの四つの額をかけられ、

床には白鶴と落款せる書福の外は、

床飾りなどもなく・・・」とあります。」

西郷さんの清貧さが

よくわかる案内ですね・・・

そんな美しい心を持った西郷さんは、

写真嫌いで、一枚も写真が

残っていないそうですが、

西郷さんを描いたもので

一番本に近いと言われているのが、

上記に出てきた「石川静正」の

西郷さんの肖像画です。

こちらは、

酒田市の南州神社のパンフ掲載の

石川静正による肖像画で、

神社の方は、

「一般的に見られる

西郷さんのお顔よりも

少しほっそりしていて、

こちらがより本人に

似ていると言われています」

このように話されていました。

公園広場からの景色。

真ん中奥の西郷屋敷跡碑、

右の徳の交わり銅像、

左の友好都市盟約五十周年・詩碑、

この3つを巡ります。

西郷屋敷跡碑

まずは西郷屋敷跡碑へ。

「南州翁使用の井戸」

着流し姿の西郷さんが、

水を汲んでいる姿が目に浮かびます・・・

西郷屋敷跡碑。

由来は概ね「武村の吉」と被りますが、

「この地は西郷隆盛晩年の邸跡である。

古くは家老二階堂氏の屋敷であった。」

このように記されているのを見て

ちょっとビックリしました。

それは大河ドラマ「西郷せごどん」で、

西郷の島妻「愛加那」を演じていたのが、

「二階堂ふみ」だったからです!

不思議なご縁というのか、

家老の二階堂さんも

喜んでおられるかも?(笑)

徳の交わり銅像

ここからはメインの

山形と鹿児島の絆です。

徳の交わり像は

公園の入口正面にあります。

滑り台の上から俯瞰。

丁度いい場所に、

滑り台があるもんです(笑)

「徳の交わり」

以下、全文です。

「西郷隆盛(南州)と菅実秀(臥牛)が

対話しているこの座像は、

ここ西郷屋敷において両翁が親睦を深め

「徳の交わり」を誓いあったことを

記念して製作したものである。

臥牛翁は庄内藩(山形県)の

有力な家老であった。

庄内藩は戊辰戦争で

官軍に激しく抵抗したため

厳しい処分を覚悟していたが、

南州翁の暖かい取計らいにより

処分は極めて寛大なものとなった。

この南州翁の人徳に感服した臥牛翁は

明治八年自ら七名の旧庄内藩士と共に

来鹿し南州翁の教えを受けた。

後に臥牛翁はこれらの人々の手記を集め

「南州翁遺訓」を発刊し全国に頒布した。

南州翁の偉大さが全国に知れわたったのは

実に臥牛翁の人徳が

その一翼を担ったものといえる。

ここに両翁の遺徳を偲び幾多の教訓と

敬愛の精神を後世に伝えるため

有志と相諮り浄罪を募り

対話の座像を建立した。

平成三年十一月吉日

武西郷屋敷銅像建立委員会」

戊辰戦争は悲劇ではあったものの

その後、こんな素晴らしい交流が

150年以上も続くとは、

西郷さんも菅さんも偉人でしょう・・

西郷さん。

菅さん。

賽銭皿のお金が

全く盗まれない日本、

この光景をずっと見ていたいものです・・

ここでお二人と共に撮影完了。

友好都市盟約五十周年・詩碑

最後に訪問したのが、

こちらの石碑です。

以下、書き下し文と案内です。

「我が家の松籟塵縁しょうらいじんえんを洗い

満耳まんじ清風身僊せいふうみせんならんと欲す

あやまって京華名利けいかめいりかくとなり

の声聞かざることすでに三年

松籟・・松風の音

僊・・仙人

京華名利けいかめいり客・・

都に出て名誉、利益を追う客」

「右の詩は明治六年の政変により

東京から官を辞して、

故郷鹿児島のこの地にあった

自宅に帰られた南州翁が、

騒がしく煩わしい都会から離れて

三年振りに我が家での

自然に親しむ暮らしを手にされた心境を

詠まれたもので、

南州翁と徳の交わりを結ばれた

旧庄内藩家老の菅実秀翁に贈与された書を

原寸通り石碑に刻し、

鹿児島と鶴岡市との

友好都市盟約五十周年の佳節に因み

詩碑を建設しました。

令和元年十一月吉日

鹿児島ロータリークラブ」

またまた西郷さんの純粋さ、

心の美しさが滲み出ていますね。

このまま余生を送る事が出来たなら、

どれほど穏やかに人生を

終われた事でしょう・・・

そしてここで妻が見つけたのが、

案内文の石碑に載せられていた

こちらの実です。

青く光沢のある実。

名前は分かりませんが、

西郷さんと菅さんの魂が

ここに宿っている気がします・・・

 

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