田中國廣銅像(宮崎県綾町)
綾町から全国区の刀工に
綾城の展示で知ったのが、
田中國廣という
綾町出身の刀工です。
Wikipediaを抜粋すると
以下になります。
「堀川 国広(ほりかわ くにひろは、
安土桃山時代の刀工。
新刀初期の大勢力、堀川派の祖。
本名は田中国広(國廣)、
京の一条堀川に居を構えたのち、
堀川国広と呼ばれるようになる。」
「享禄4年(1531年)、
日向国綾にて誕生。
日向国の戦国大名・伊東氏に仕えたが、
天正5年(1577年)、主家が没落後、
山伏修行など諸国放浪して刀工をつづけた。
天正18年(1590年)、
下野国(現・栃木県)の足利学校で、
当主の長尾顕長のために鍛刀。
慶長4年(1599年)頃から
京堀川一条に定住。」
「慶長19年(1614年)
4月18日、84歳で死去。」
「門人に出羽大掾(だいじょう)国路、
国安、大隅掾(おおすみのじょう)正弘、
越後守国儔、和泉守国貞、
河内守国助、山城守国清、
などの名工がいて、
堀川一派として大いに栄えた。」
田中さんの刀は、
重要文化財となっている作品も多く、
言わば、綾町のヒーロー的な存在。
だから銅像もあるはずですね(笑)
田中國廣銅像
綾城の展示で、
田中さんの偉業を知り、
綾城散策後、銅像へ。
お城の郭(曲輪)の端、
木々に覆われた場所に
銅像は建てられています。
ご対面。
「刀工田中國廣」
「新刀の開祖と言われる田中國廣は、
綾町古屋に生まれ、幼い頃から
父旅泊の元で鍛刀に励み、
天正14年(1586)に打った刀は、
日州古屋住國廣作として
国の重要文化財に指定されている。
また、國廣は文武両道に秀れ、
伊東氏が没落して豊後へ落ちる際、
伊東マンショ(満千代)の侍臣としての
功績も残している。」
このように案内されています。
伊東氏の没落、苦難の逃避行が、
田中さん栄光への道のスタート。
人生はどうなるか予想不能ですね。
伊東氏の繁栄が続いていたら、
田中さんは一生、
日向(宮崎)から出る事が
無かったかも知れないのですから。
「チャンスはピンチの顔してやって来る」
こんなフレーズが、
ぴったり当てはまる好事例です(笑)
近づいて撮影。
正面。
左斜から。
お顔アップ。
厳しさの中の優しさ、
そんな陳腐な表現しか
思い当たりません(笑)
後ろ姿にもスキは無し!
右斜めから。
これにて
田中さんの銅像見学は完了です。
今日の癒やし
銅像を見ていた時、
頭上でキツツキが
木をつつく音を妻がキャッチ。
見上げて見ると、
いらっしゃいました!
キツツキ科の一種、
キュウシュウコゲラ(多分)。
のどかな森の中に響く
「コン・コン・コン・コン!」という音、
女性(メス)にアピールする為の
ドラミングだそうです(笑)