北条早雲像(小田原市)
北条と北條
今回の旅は、
鎌倉時代の執権である北条氏と
戦国時代、小田原城を中心に
北條早雲を祖として、
関東を支配したいわゆる「後北条氏」の
関係する墓や戦跡を巡る旅。
そんな中、旅の各所で見られたのは、
「北条」もあれば「北條」もある事(汗)
どっちが正しいのかと言えば、
新字体と旧字体の違いというだけで、
どっちもOKらしいので、
このブログにおいて、メインは「北条」で、
時々「北條」として書くことに決定!
漢字って、ややこしいな~(笑)
小田原駅西口へ
北條早雲像は、小田原駅西口の
真ん前に建っています。
小田原城の北側、
小田原駅を挟んだ、
赤丸の場所ですが、
グーグルさんは「北条」ですね(笑)
そんな北条早雲像とは反対側、
東口に建っているのが
こんな有名人の像です。
二宮金次郎像。
決して歩きスマホ像ではありません(笑)
昔、日本の小学校には
必ずと言っていいほどあった像ですが、
何故ここにあるのかは、
次の案内が教えてくれます。
「二宮尊徳(金次郎)
(1787~1856)」
「郷土の偉人、二宮尊徳(金次郎)は、
今の小田原市栢山に生まれ、
少年時代に両親を亡くして苦労しましたが、
それを乗り越えて立派に成人し、
後に栃木・茨城・福島・神奈川など各地で
多くの村の復興に尽力しました。
また、「どんなものにも徳がある」
「譲って損なく奪って益なし」など、
たくさんの教訓を残して、
今でも多くの人から尊敬されています。
祝小田原市制八十周年
令和二年十二月吉日
小田原報徳実践会」
実際に小田原城内には、
「報徳二宮神社」という
二宮尊徳を御祭神とする神社もありますし、
北条早雲と並び、
小田原市のヒーローである事は、
間違いありません。
小田原駅東口から
小田原城方面の風景。
ズームして天守をアップ。
駅構内を通って反対側、西口へ。
ここは箱根登山線や
小田急線の起点駅でもあります。
西口に到着。
いきなり見えています、
北条早雲像が!
ロータリーを迂回して、像の傍へ。
北条早雲像近影。
まずは、案内を確認。
「北條早雲公略伝」
略伝とはいえ、かなり詳しいので、
内容を超訳すると
以下になります。
また、ここでは「北条」ではなく
「北條」の漢字が使用されていますので、
敬意を表し、「北條」として書きます。
「北條早雲公は、
小田原北條氏五代の祖である。
「北條記」によれば、
明応四年(1495)
伊豆韮山から箱根を越えて
小田原に進出した時、
牛の角にたいまつを結んで
大軍の夜襲に見せかけた、
いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて
大森氏を討ち破ったという。
その後、小田原は、九十六年間にわたり
北條氏の城下町として繁栄し、
東国一の都市に発展した。
小田原城には嫡男の氏綱公を住まわせ、
自身は伊豆にあって
背後の守りをかためていたが、
永正六年(1519)八月十五日、
八八才の天寿を全うして韮山に没した。
また北條姓は
二代目氏綱公から用いられた。
伝来の北條家の家訓
「早雲寺殿二十一ヶ条」において、
早雲公は、身を慎み、礼を重んじ、
質素倹約を旨とすべきことを説き、
学問、歌道に親しむことを奨励している。
菩提寺金湯山早雲寺は箱根湯本にあり、
当初は早雲公、氏綱公の
二代をまつっていたが、
その後、氏康公、氏政公、氏直公をも加え
北條五代を合祀している。」
ほぼ徒手空拳から身を起こし、
小田原城を手に入れた人ですから
単なる無頼漢のはずはありません。
「文武両道+苦い経験の積み重ね」
これこそが、
大願成就の元だったはずですから、
この案内に大いに納得です。
こちらは像の裏側の銘版。
要約すると、以下になります。
「小田原市制50周年を記念し
北條早雲公の像を建立する。
その資金は多数の市民をはじめ、
近隣市町、個人、諸団体の
寄付金に仰いだ。
これが各位の協力の
賜物であることを銘記し、
感謝の意を録す。
平成二年(1990)四月
北條早雲像建立期成会」
1990年といえば、
1590年の小田原城落城から
奇しくも400周年です。
そんな記念すべき年に
北条早雲像が建立された事は、
小田原市民を
ずっと見守っていたいという
早雲さんの魂が
そうさせたのでしょう・・・。
いや~これはカッコいい!
案内に書かれていた
「火牛の計」を使って
大森氏を討ち破った事が、
ここに凝縮されています。
牛たちの躍動感、
素晴らしい!
なんだか早雲さんの気持ちと
牛の気持ちが一体となって
敵を攻め立てているのが、
ビシバシ伝わってきますね!
早雲さんのお顔アップ。
鐙の先まで北条氏の家紋、
三つ鱗が光っています。
こんな細部までのこだわり、
たまりません!
背中もスキ無し!
全体像、後ろから。
右後方から。
左前方から。
最後に小田原駅をバックに、
裏側から撮影。
火牛の計・・・覚えました(笑)