須古城(佐賀県白石町)

 

必然的

お城巡りの強い味方である

攻城団」というサイトで、

須古城の事前情報を見ていると、

蚊の大群、蜘蛛の巣や竹藪で、

歩くのもままならない・・・

などの先人達の記述があって、

「今回は行きたいところも多いし、

須古城とその支城である

杵島城、男島城の3つを

合わせて俯瞰できる

近くの山上にある犬山城展望台

(本当のお城では無く

お城の形を模した展望台です)

に行き、そこから眺めるだけにしよう・・

それにプラス、気持ちよく

展望台で弁当も食べよう(笑)」

そう思っていました。

ところが、その犬山展望台、

豪雨の被害なのかどうかは

分かりませんが、

途中で道路が閉鎖されて、

行くことが出来ず、

目論見は見事に崩壊(汗)

しかし、

何事も良い方にしか捉えない僕(笑)

「だったら当初の予定通りに

須古城を攻略するしかない」と

行ってみたのです。

結果、僕は喜び、妻は・・・(汗)

まあ、神様のお導きだったのですから

良しとしましょう(笑)

肥前犬山城へ

ネットでは通行止めの事を

見つけきれていなかったので、

妻山神社から犬山展望台への

ドライブ中は、ただただ、

「めっちゃいい景色が見られるぞ!」

「天気も一面青空で最高だし

佐賀平野も一望だぜ~!」

そんなワクワクしかありませんでした。

そして、山を登ること数分・・・

通行止!(汗)

なんじゃこりゃ~・・・

弁当が食えんじゃないか・・・(笑)

と言ってみても

柵を突破するわけにもいかないので、

ここで頭を切り替え須古城へ向かう事に。

須古城へ

須古城は平野に

小山がポツンと飛び出たような

遠くからでもかなり目立つお城です。

戦国期、龍造寺隆信が居城とし、

隆信が沖田畷の戦いで、

有馬晴信、島津家久連合軍に破れ

討ち死にしてしまった後は、

弟の龍造寺信周の居城となり

須古鍋島家の祖となり幕末まで続いています。

右側が須古城、

左は支城の杵島城。

近寄ると意外に大きな山城です。

須古小学校の案内板。

古くなっていますが、

位置関係がよく分かります。

攻城団のサイトで、

以前須古城を攻略した

人たちのコメントを読み

このコミュニティーセンターに

車を止められる情報を得ていたので、

迷う事なく到着。

建物は無人で閉まっていましたが、

玄関には「白石の地で縁結び」の案内が。

須古城周辺での婚活ですね。

どこに行っても婚活だらけです、

日本は(笑)

そのコミュニティーセンター横には

庭園があります。

鶴亀の池(藩政期)と

案内がされていましたので、

江戸時代になってからの池でしょう。

庭園の背後には須古城。

鍋島八重垣姫の供養碑(多分)

池の向こう側で、凄いもの発見!

これは明らかに石垣の一部でしょう。

案内には無かったのですが、

キョロキョロして見るものですね(笑)

充実の史料は自由に貰えます。

この地図があれば百人力。

正直、このお陰で、

須古城を攻め落とせました(笑)

小学校横から攻め上がります。

へ~古墳もあったのか。

戦国の世の中よりも

1000年位も前、

このあたりは既に栄えていたという証です。

東屋。

井戸の跡。

石垣の足が散乱しています。

藪を進みます。

11月というのに、

蚊の大群にも襲われてしまい、

かなりの苦戦です(笑)

見応えある石垣。

石がゴロゴロ。

桝形虎口の案内。

下から見ると、

確かに桝形ですね。

大雨なども多いのに

よくぞ残っていたものです!

石垣の案内。

い、良い〜(笑)

本丸へ。

ここは、虎口ですね。

本丸。

屏風岩。

外から見ると岩の盾ですね。

おっと、鉄砲隊に狙われてしまいました!

何か文字が彫ってあります。

内側からだと、

本当に屏風みたいですね!

近影。

本丸全景。

降りるのがまた、大変(汗)

ここにも石垣。

ここを抜けると

素晴らしい景色。

ここで、ツーショット。

須古小学校が見渡せます。

そして、無事攻略成功。

小学校前の石垣は、

須古城の石垣をイメージした

近代のものでしょう。

見応え十分、

アスレチック満載の城跡を

満喫して(僕だけ?)

須古城に別れを告げます・・・

展望台の封鎖は偶然、

でもそれは間違いなく必然でしたね。

 

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Comment

  1. 歴史資料収集収集家 より:

    夜分に失礼致します。
    須古城は戦国後期に龍造寺家に攻め落とされ龍造寺の支城となりましたが、元は肥前で名を馳せた有馬家の家臣である須古妻夫木城主の平井氏に始まった城です。
    龍造寺 隆信の須古城攻め落としの際に城の城兵逃げんとし討たれるや哀れや哀れと、いう記述も残っており須古踊りの唄も各地に伝え残されています。
    ねぶられぬ者は その意をまぐれ待つ夜も
    ふらぬ時雨に袖絞る
    かさかなひこの もらざるに
    そらあを恨めしや
    千代太刀川に雨降らば雨降らば
    浮き世に住まば にこつ君様にこつ君様
    目出度き御代の始かな若殿が功なされて
    国重なりて御代久しけれ御代久しけれ
    千代に八千代と千代重なりて
    御代久しかれ御代久しかれ
    書きやる文を たたいたつに
    見分けて戻す人ぞ恨めし恨めし
    怨みても我に逢ふ夜の文玉章を
    中で留むる人ぞ恨めし恨めし
    現なの人の心や我は思へど其方こそ
    わし木の葉の露降りしや しとしと
    武蔵の原の一本すすき
    いつか穂が出て乱れ合ふ乱れ合ふ。
    須古踊りの唄参照。

    • tabibito1722 より:

      歴史資料収集収集家様、
      コメントありがとうございます。
      また、「須古踊りの唄」のご紹介など
      詳しいご案内も
      合わせて感謝しております。
      少し調べると
      須古城とは距離がある、
      長崎県の平戸などで、
      継承されているようで
      かなり驚きました。
      須古から逃れて移り住んだ人が
      ずっと踊り続けて来られたのが、
      本当に素晴らしい事ですね。

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