泰勝寺跡(熊本市中央区)

 

細川家のお墓(廟所)

江戸時代初期、肥後熊本藩は、

加藤家の改易後、細川家が入り、

そのまま明治維新を迎えています。

泰勝寺跡の案内によると、

熊本での初代藩主、細川忠利が

母(細川ガラシャ)と、

祖父(細川藤孝)夫妻の

廟所を泰勝寺に作り、

そして、忠利が亡くなり、その後に、

父、忠興が亡くなったのち、

忠利の子、光尚は、忠興の墓(廟)を

加えて建て、「四つの廟」となっています。

昨年参拝した滋賀県大津市、

西教寺の細川ガラシャの墓

そして最近訪問した

小倉城天守での

細川ガラシャの企画展など、

なんだか細川家との

ご縁をいただいていますね~(笑)

武蔵の引導石

泰勝寺跡の少し手前に

「引導石」というものがあります。

熊本観光ガイドというサイトによれば、

「武蔵の葬儀は、

熊本藩により盛大に

とり行われたといわれています。

旧国道57号から弓削(ゆげ)に

向かう葬儀の途中、

禅の道を通じて武蔵と親交の

深かった細川家の菩提寺、

泰勝寺(たいしょうじ)の

二代目和尚・春山和尚が

待っていました

(泰勝寺の初代和尚・

大渕玄弘和尚では

ないかという説もあり)。

そのとき、

棺はいったん参道の石の上に置かれ、

和尚が成仏するよう引導を渡すと、

にわかに雷鳴が鳴り渡ったと

伝えられています。

以来、この石は

引導石と呼ばれるようになりました。」

このように書かれています。

泰勝寺跡

明治の廃仏毀釈により

廃寺となった泰勝寺跡は、

現在立田自然公園として、

整備されています。

石垣が残る寺跡の一部は、

細川家の別邸として

現在も使われています。

寺の入口は桝形虎口ですよ!

ここは、防御施設としての

意味合いもあったのかも知れません。

山門(跡)

早咲きの桜が一本、

僕たちを歓迎してくれています。

お礼の妻とのツーショット(笑)

案内。

料金所。

池の左側を歩いて、

まずは、四つの廟を目指します。

苔園。

「泰勝寺は古くから

肥後の苔寺と言われている。

細川家の古い歴史を見守ってきた

見事な苔園で、白髮苔、立髪苔、

しのぶ苔、かがみ苔等々数百種類の

苔の集まりである。」

このような案内が書かれています。

そう言えば、ここの住所は、

熊本市中央区黒髪、

白髮苔から推測して、

黒髪苔という名前から

この地名が出来たのかも知れません。

(あくまでも勝手な推測です)

四つの廟

いよいよ、四つの廟に到着。

石段。

門。

四つ並んでいます。

後ろから。

それぞれの建物には、

九曜紋があしらわれています。

周囲の「○」が小さいので、

不運にも、人間違いで

藩主、宗孝が江戸城内で

斬り殺された事件後、

意匠変更された後の

「はなれ九曜」でしょう。

初代藤孝公廟所。

五輪塔に参拝。

藤孝公室廟所。

参拝。

忠興公廟所。

参拝。

忠興公の妻、ガラシャ廟。

参拝。

ガラシャ夫人の手水鉢。

案内。

宮本武蔵供養塔

次なる目的地は、

宮本武蔵供養塔です。

四つの廟所から

低い玉垣をくぐり、

奥へと進みます。

寺跡の石垣。

石垣の横を抜けてさらに奥へ。

広い場所にお墓群が見えてきました。

まずは、泰勝寺初代、

大淵和尚の墓に参拝。

宮本武蔵供養塔に参拝。

その後、細川家代々の

藩主などの墓をめぐり

泰勝寺跡の訪問は完了。

椿と蘇鉄

お寺や神社では、

何故かよく椿と蘇鉄を見かけます。

妻はその事がとても気になっているようで、

常にこの二つに反応します・・・。

僕も感化され、

同じく反応しているんですが(笑)

四つの廟の玉垣に置かれた椿。

僕たちが参った時、

年配の女性が一つ一つ、

ここに椿を置いていました。

やはり椿は、仏や神と

何かの関係があるのでしょうか?

宮本武蔵供養塔前の椿。

落ちたのか、人為的に置かれたのか、

なんとも不思議な光景です。

四つの廟に植えられた蘇鉄。

やはり蘇鉄もあったか~(笑)

 

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