宝八幡宮(大分県九重町)前編
名前に引き寄せられた
僕が宝八幡宮を参拝した
大きなきっかけは、
やはりその縁起の良さそうな
「宝」の文字に反応したからです。
まあ、何処かに行くきっかけなんて、
そのほとんどが、
他愛の無いことが多いのですけど、
ここ宝八幡宮は名前以上に、
素晴らしい神社さんでした。
参道
茅葺屋根の豊後中村駅から、
本日最後の訪問地、
宝八幡宮へと向かったのですが、
グーグル先生の能力では、
行き着けませんでした。
途中からはアナログ全開。
それでも辿り着けたのは、
「宝」を何とでも探したいという
僕の欲深さが良かったのかも?(笑)
駐車場が広いって幸せ(笑)
宝八幡宮には数カ所の駐車場があり
100台分を完備されています。
徒歩で少し下って、
本参道へ。
まずは、下側、
参道の起点方向を撮影。
社頭まで降りる気力がないので、
ここは写真のみです(笑)
330段ある階段の
中間地点位から参拝スタート。
三の鳥居は、
寶永四年(1707)建立。
神額。
さらに上へ。
手水舎手前の狛犬に注目。
阿形。
この古さ、江戸時代の寄進でしょう。
かなり風化が進んでいますが、
ここで現役を務められています。
素朴なお顔、素敵です!
吽形。
この風体、
なんだかアニメ、「秘密結社鷹の爪」の
レオナルド博士を思い起こさせます(笑)
お顔のどアップ。
手水舎にて禊完了。
護國神社
この段の右側には、
護國神社が鎮座しています。
本社よりも先の参拝になりますが、
まずは御英霊の方々にご挨拶。
拝殿から本殿へ。
本殿に参拝。
神幸所(神人和楽殿)
護國神社のすぐ隣には、
近年建てられた
真新しい神幸所があります。
案内には、
「従来の神幸所は
本宮より三キロ離れており、
神輿三基を担いで渡御していた。
しかし過疎高齢化に
伴う氏子減少により、
担ぎ手の確保が困難になってきた。
また、
同施設が老朽化し、炊事場を中心に
利用不可となっている。
以上のことから、秋祭の神幸所を
本宮境内に新築移転し、
機能を一元化することとした。」
このように書かれています。
過疎高齢化という難題を
見事に解決され、
祭祀を持続可能にされています。
今流行りの言葉を使うと、
「サスティナブルな神社」
となるのでしょうか。
三基の神輿うち二基は
ここに納められています。
「宝楽」の案内。
少しだけ書き出すと
「宝楽は「宇土流楽」ともいい、
毎年十月七日のお下りと
九日のお上りの両日、
宝八幡宮の境内及び、
紅梅山神幸所において
執り行われる勇壮な楽杖である。」
このように書かれています。
紅梅山神幸所というのが、
先述した、
「三キロ離れて老朽化した」
神幸所に当たるのでしょう。
廣瀬淡窓先生文学碑
神幸所の真向かい、
社務所の前に建つのが、
「廣瀬淡窓先生文学碑」です。
この旅で、廣瀬淡窓さんの歌碑は、
日田市の吹上神社に続き、
二ケ所目です。
淡窓さんは弟子の
多くの個性豊かな才能を伸ばし、
日本の礎造りに大いに貢献した方。
あちらこちらで顕彰されるのは
当然でしょうね。
「廣瀬淡窓先生と玖珠」
めっちゃ詳しいので
超訳します(笑)
「先生は十五歳の
寛政八年(1795)から、
福岡藩の亀井南冥・昭陽父子の
私塾で学び、
その後、文化二年(1805)
地元日田の豆田町で
私塾「咸宜園」を開設。
これは「咸宜(みなよろ)しき学園」
という意味です。
つまり、皆それぞれ個性に応じて
その天分を伸ばすことができる
ということで、
その教育を実践したからこそ、
多種多才な人物が
この塾から輩出しました。
この廣瀬淡窓先生と
右田舟来の麻生家とは、
学問的にも血縁的にも
深い関係を有しています。
先生がこの麻生家に一泊した際の
天保十五年(1844)九月一日に、
麻生伊織(先生の妹那智の婿)に
贈った詩を刻んだのが、
この文学碑です。
(読み)
書楼開けば両峯の間に在り、
倦鳥帰雲意自らしずかなり、
天は君の家の為に福寿を栽える、
宝山相対する萬年山
(意訳)
あなたの書斎(二階屋)に
上がって窓を開けば、
宝山と万年山の間に
位置しているではないか。
ここからは、飛ぶことに疲れた鳥や、
湧き出ずる雲が、
再び山々に帰っていくのがみえる。
私の心も、このような自然と一体となり、
安らいだ気持ちになる。
天は、君の家の為に
福寿を集めてくれている。
宝山と相接している万年山のこの二山は、
宝の山と長寿を
合わせ有しているではないか。
なんとめでたきところにあることか。」
このようになります。
これでもかなり長いですね(笑)
淡窓さんと宝神社のご縁を知ったところで、
本殿の参拝へと向います。
(続く)