吹上神社(大分県日田市)後編

 

廣瀬淡窓の碑

吹上神社の境内に入ると、

このような石碑が建っています。

碑文の作者は「廣瀬健」。

廣瀬健とは、日田出身の儒学者で、

私塾、咸宜園の主宰である

廣瀬淡窓の事です。

恐らくこの山に登ったころは、

「健」さん(笑)だったのでしょう。

「吹上山觀音堂」という

題名の漢詩なのでしょうか、

読み下し文が書かれていますが、

何となく理解できるような

出来ないような(汗)

漢字変換が難しい文字があり、

書き出すのはめんどうだし、

淡窓さんもここに来たというのが、

分かったのでそれでOKです(笑)

やはり日田といえば、廣瀬淡窓。

お墓の傍らにある「文玄先生之碑」や、

永山城の「帰安碑」、

永山布政所跡の「淡窓五首ノ一碑」など

日田市に於いて、

淡窓さんの碑は、

とにかく神出鬼没です(笑)

吹上観音

吹上神社の拝殿左側には、

兄弟のように寄り添って建つ、

吹上観音堂があります。

手前が神社の拝殿、

向こう側が観音堂です。

反対側からも撮影。

手前が観音堂で、向こう側が拝殿。

吹上観音堂、正面。

石に陽刻された仁王像(吽形)

左側が阿形。

「吹上観音坐像」

案内を要約すると

「本堂に鎮座する吹上観音像は、

如意輪観音と伝えられているが、

像容からみると聖観音とも考えられる。

祇園囃子の一節に

吹上観音様はあらたかな仏

一夜こもれば様に逢う

と唱われたように

信仰の厚い観音様である。

像高は1.2m余り。

制作年代は平安中期と考えられるが、

惜しくも制作当時の部分は

顔・胸・胴の前面に残るだけで、

他の部分は鎌倉時代から室町時代に

補修されたものである。」

このようになります。

鰐口を打って参拝。

参拝後、側面に回ると

上部に角型の大きな棒が

大切に配置されています。

これは、いったい何でしょう?

いまだに謎・・・?(笑)

そして、

この棒の下あたりにあるのが、

こちらの案内版です。

「吹上町三十三体小観音

西国三十三ケ所観音」

文章を書き出すと、

次のようになります。

「西国は現在の近畿地方で、

少観音は江戸時代初期に

設置されました。

当時の人達は西国までは

到底行くことは困難であったがため

西国まで行かなくてもお参りできる

「三十三体の小観音」を

吹上観音堂の廻りに設置をいたしました。

堂内には ほぼ等身大の四天王像と

三十三体小観音像が併置されています。」

矢印が書かれていたので、

素直に従って裏側に回ると・・・

お~凄いですよ!

ガラス越しですが、

三面に渡って三十三体小観音像を

見ることが出来るのです!

ガラスの反射で

撮影出来ない部分も多いですが、

この面だけは、うまく撮れました・・・

いや、iPhoneで撮影してる僕も

しっかり入っていますね(汗)

先程の案内では、

「少観音は江戸時代初期に設置」

と書かれていましたので、

その当時からのものでしょう。

少観音像に感動した後は、

拝殿と観音堂をバックに

神仏習合ツーショット(笑)

吹上遺跡

神社のさらに上側には、

今から2千年ほど前、

弥生時代中期の遺跡があります。

境内からさらに山側へ。

遺跡が見えてきました。

吹上遺跡のほぼ全景。

案内。

要約すると

「遺跡は日田盆地を眺望できる

台地一帯に広がる。

弥生時代中期後半の甕棺墓や

木棺墓が11基発見された。

このうち四号甕棺墓からは、

沖縄以南でとれる

南島産のゴホウラ製貝輪を

左手にはめた人骨とともに、

多数のガラス製管玉・硬玉製勾玉

銅戈・鉄剣が副葬品として出土した。

その他、南島産のイモガイ製貝輪を

両手にはめた人骨などが発見された。

このようにまとまって副葬品を持つ

弥生時代の墳墓群は県内でも他に例がなく

当時の日田地方を治めるに

相応しい首長の墳墓であろう。」

このようになります。

吹上遺跡発掘現場の

上空からの写真と出土品。

遺跡近くからの展望。

畏れ多くも

神様、仏様の頭上です(汗)

御社殿を通って、山裾の駐車場へ。

吹上神社、

期待を超えた、素晴らしい神社でした。

 

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