高泊神社(山口県山陽小野田市)後編

 

毛利氏の底力

関ケ原の戦いで、

西軍の総大将だった毛利氏は、

敗戦後、120万石から37万石と

大減封を食らっていますが、

その後、干拓事業と新田開発などで、

次第に石高を増やし、

表高の37万石はそのままで、

実質的に100万石ほどの

生産力にまでなったとか・・・

江戸時代260年間を通じ、

「関ケ原の借りを必ず返す」という

強い信念を原動力にした毛利氏。

そんな毛利氏の底力を

ダイレクトに感じられるのが、

ここ高泊神社です。

本殿が鎮座する大岩は、

干拓前には海に浮かぶ小さな岩の島で、

今でも島だった頃の痕跡を確認できます。

これは萩藩(長州藩)あげての

一大干拓事業あればこその痕跡ですから

感慨もひとしおですよね。

本殿

拝殿での参拝を終え、

次に本殿へと向かいます。

拝殿(右)と岩の上の本殿(左上)。

岩山の麓。

石段で岩上へ。

江戸時代っぽい狛犬。

吽形。

本殿が見えてきました。

本殿に参拝。

ここは立ち入り禁止なので、

ここから狛犬を撮影。

何とがお顔は見えます(笑)

建立は文化十二年

(1815)五月。

本殿左後方から。

阿形の方は正面から撮影可能。

そして、

狛犬の左後方に見えている石祠へ。

本殿傍の石祠に参拝。

干拓事業の安全祈願をしたのが、

当時、「龍王島」という岩の島で、

現在の本殿が建っている場所。

なので、この小さな石祠は、

祈願した祠かもしれないと

妄想を膨らませていたら

こちらは「秋葉神社」、

火伏せの神様でした(笑)

でも、本殿横にあるのは、

心強いことかな?

高泊天満宮

本殿から下って右側に鎮座するのが、

高泊天満宮です。

エントランス。

鈴紐が左寄せで、

参拝中心の配置ですね。

天保六年(1835)寄進の狛犬。

吽形。

本殿斜めから。

参拝。

島の痕跡

関ケ原の戦いで、

南宮山の頂上に陣取った西軍の毛利氏、

その毛利氏の抑えとして

南宮山の山裾に陣取った東軍の池田氏。

この両家、江戸時代には、

長州藩(山口県)、

備前国岡山藩(岡山県)として、

瀬戸内海干拓事業を大推進した

ツートップです。

その一つ毛利氏の干拓事業が、

裏参道近くで確認できます。

裏参道入口。

この右側が島の痕跡です。

大岩の上に本殿が見えています。

岩礁の地層。

海に侵食された岩を見て、

僕たちが立っているのは、

海底だったことがよくわかります。

さらに、岩礁だった証明がこちらです。

「亀岩」の案内。

確かに亀さんですね!

干拓前は、

ここが海岸線だったのでしょう。

ここまでで、高泊神社の参拝は完了し、

次は、この神社が鎮座した

きっかけとなった

江戸時代の干拓事業「高泊開作」の

重要な遺構である

「高泊開作五挺唐樋」へと向かいます。

 

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