滝部八幡宮(山口県下関市)
パラダイムシフト
コロナ禍により、
人の常識は一変しました。
その代表格がマスクをしての接客です。
「マスクをしてお客様の対応なんて失礼だ」
というのがコロナ禍前の「常識」。
しかし、コロナ禍後は、
「マスクをしないでお客様の対応なんて
なんと失礼な奴だ!」が「常識」(笑)
こんな劇的な価値観の変化を
「パラダイムシフト」とか、
「パラダイムチェンジ」と言いますが、
ここ滝部八幡宮の社頭の石碑により
僕は江戸時代と、それ以降、
現代までの価値観が、真逆だという事を
改めて知ることとなったのです。
参道
旧滝部小学校を見学後、
すぐお隣の滝部八幡宮へ。
一の鳥居。
御旅所(右)と二の鳥居。
楼門への石段。
右側で見つけたのが、
冒頭に書いた、
パラダイムシフトの現場です(笑)
「烈婦登波の碑」
内容を書き出すと
以下になります。
「登波は、
滝部の宮番甚兵衛の次女であって、
父甚兵衛と肉親数名を
些細なことから殺傷した
(文政四年・1821)石見の浪人
枯木竜之進を討とうとして苦心惨胆、
六十余州を遍歴し
遂に豊前の彦山で本望を遂げた。
(天保十二年・1841)
この事跡について、
先大津代官勝間田盛稔は
安政三年(1858)藩に申請して、
登波は表彰され褒美を与えられた。
その後
先大津代官となった周布政之助は
登波の表彰文を
その師吉田松陰に依頼した。
松陰は一ヶ月の間、
松下村塾の授業を休んで成稿した。
(安政四年・1857)
その後、
登波表彰のことが永く止んでいたのを、
長府の桂弥一の進言によって、
大正五年(1916)に
地元の有志が発起し、
中山太一の寄付によって
建碑されたものである。」
「甚兵衛屋敷跡」
宮番なので、
ここに住んでいたのでしょう。
家族もろとも殺傷された現場でも
あるんでしょうが・・・
「烈婦登波の碑」
吉田松陰が一ヶ月も
松下村塾を休んで考えた碑文、
素晴らしいものなんでしょうが、
漢文なので読む気力は無し(汗)
傍らに建つもう一つの石碑。
こちらも関係あるのかも?
親や親族の仇討ちを
吉田松陰でさえも
「称賛」した江戸時代。
親や親族が殺され、
犯人が捕まった場合でも
裁判を見守るしかない現代の遺族。
今、吉田松陰が生きていたら
頭が混乱したかも知れません(笑)
楼門。
明治八年奉納、
愛嬌満点の狛犬。
吽形。
楼門は平成26年の再建です。
文化十四年(1817)寄進の手水鉢。
参道左側には、
旧滝部小学校が見えています。
拝殿右側の御神木、
イチイガシ。
御社殿
拝殿へ。
参拝。
鎌倉時代、蒙古襲来にそなえ、
国家鎮護のため弘長三年(1263)
神田一ノ宮より勧請し創建したと
御由緒には書かれています。
拝殿左から本殿へ。
本殿に参拝。
本殿と拝殿。
なんだかツーショットがドアップに(笑)
赤崎神社
次に境内社へ。
赤崎神社。
「腰輪踊」の石碑。
「赤崎神社と腰曲輪」
神宮、外宮と同じ、
食べ物の神様、豊受大神と
風雨の神様、
竜王神が祭られています。
参拝。
五穀成就の神額。
招魂社
次に招魂社へ。
神明鳥居。
御英霊の皆様に参拝。
本殿も神明造です。
本殿左側に配置された
「招魂社」の神額。
古い鳥居に掲げられていたのかな?
右から、日清戦争、日露戦争、
シベリア出兵の碑。
ここまでで、
滝部八幡宮の参拝は完了です。
今日の注目
境内の端っこで見つけたのが、
こんな建物です。
レンガ造りのレトロ風な佇まい、
そして、
横壁には樹木の絵が描かれています。
気になるけど、何なんのでしょう?