田中城ミニミュージアム(熊本県和水町)後編
お墓参りからの~田中城
田中城ミニミュージアムの目玉は、
豊臣秀吉軍が作成した
田中城攻略時の陣取図です。
こちらは複製ですが、
450年も前に描かれたものを
目の当たりできるとは、
なんと幸運なことでしょうか。
そして、
この陣取図に出会えたのは、
こちらの方のお導きだったようなのです。
僕たちが田中城に行く一ヶ月前、
山口の旅でお参りしたのですが、
なんと、この方が、
田中城攻めの総大将だったのです!
この当時は小早川隆景の養子で、
小早川秀包と名乗っていました。
この年(天正十五年)秀包さんが、
13万石の久留米城主に大抜擢されたのも
田中城攻略の功績も一因でしょう。
歴史の色んな繋がりを知ることが出来、
秀包さんのお導きに感謝です!
3Dジオラママッピング
外観が「お城風」の小学校跡の一角が、
田中城ミニミュージアムとして活用されています。
入口。
コンパクトな室内ですが、
中身はギッシリ詰まっています(笑)
パネル展示には、
地元の英雄、
金栗四三さんもいらっしゃいますね。
そして、ここでの注目は
最先端技術を駆使した
田中城の戦いを再現した、
「3Dジオラママッピング」です。
誰もいないので、
僕たち二人で独占(笑)
冒頭に書いた陣取図、
「辺春和仁仕寄陣取図」
解説を書き出すと次のようになります。
「ここ和水町にある田中城は、
肥後国衆のひとりである
和仁氏の居城でした。
天正15年(1587)に勃発した
「肥後国衆一揆」では、
和仁氏や辺春氏などが
立て籠もる最終拠点となっていました。
その際、豊臣秀吉軍が作成した
「辺春和仁仕寄陣取図」は
日本最古の陣取図として知られています。
この絵図によると、
田中城の周りに二重の柵列を設け、
田中城の西に総大将小早川秀包軍、
その南隣に安国寺恵瓊軍、
南に立花宗茂軍、東に筑紫軍、
北に鍋島直茂および肥前衆が
取り囲んでいます。
さらに「軍中法度」
(作戦の間、陣中で守るべき禁令)などが
書き込まれており、
当時の合戦の指揮が
どのようなものであったかを伺わせます。」
ここで書かれた「軍中法度」の
現代語訳は以下になります。
「一.喧嘩をしてはいけない。
一.商品の値段を強引に値切ったり、
おどして安く買い叩いたりしてはいけない。
一.戦の指揮は安国寺恵瓊と
小早川秀包の指示に従い、
めいめい勝手に戦ってはいけない。
陣地を築いたりするのも、
安国寺と小早川の命令に従い、
勝手にやってはいけない。」
これを読むと、
安国寺恵瓊が総大将である
毛利秀包をかなりサポートしていた事が
よくわかりますね。
航空写真に陣取図を重ねたもの。
そして、
いよいよ3Dジオラママッピングの
スタートです。
4言語に対応。
始まった!
攻略前の状態。
城が陥落する瞬間。
武士たちの動きが素晴らしく、
めっちゃ分かりやすい!
ホント素晴らしいものと出会えましたよ!
パネル展示
マッピングで感動した後はパネルの観覧へ。
中世、ここには多くの城があったのです。
国衆の力が強く、
支配するのが難しかった熊本、
国主となっていた、
佐々成政は力ずくで
国衆を抑えようとして失敗、
秀吉は怒って切腹させています。
天正15年(1587)が、
秀吉の九州征伐における
山場だったようです。
田中城と和仁氏。
和仁氏について、
分かっている家系は三代。
田中城は1370年頃
築造されたようですが、
詳しいことはわからないようです。
歴史年表を熱心に見る妻。
昔は全く興味なかったのですが、
今は180度変わっています(笑)
田中城からの発掘物
発掘現場写真と
現物の展示を見学。
鉄砲玉がありますね!
きっと今でも埋まっているはずです(笑)
上尾城跡のジオラマ。
支城的なものだったのかな?
和水町の製鉄炉跡
こちらは発掘された
実物大模型が展示されています。
先程のマッピングといい、
この模型といい、
和水町の「本気度」に
心から敬服ですね!
11世紀後半(平安時代)の
製鉄所跡だと書かれていますので、
田中城よりもかなり先輩ですね。
ビデオがまた秀逸。
ここまでで見学は終了です。
田中城ミニミュージアム、
名前は「ミニ」ですが、
職員さんの親切な対応も含め、
中身は間違いなく「ビッグ」。
未来に向けて、
田中城ミニミュージアムの
より一層の繁栄を願って止みません。