田中正造生誕地墓所(栃木県佐野市)

 

6分の2

田中正造のお墓は、

5箇所あると言われてきましたが、

後に一箇所追加され、

分かっているだけで合計6箇所あり、

各地区において慰霊されています。

それほどまでに、

地元の人々から本当に愛され、

崇敬されていたということでしょう。

僕たちは、そんな中から、

田中正造の仮葬儀が行われた雲龍寺

ここ生誕地墓所の2箇所を

お参りすることが出来ました。

いつかは全部お参りして、

「結願」と行きたいところですが、

未来のことは神のみぞ知る、

将来の自分に期待しておきましょう(笑)

参道

群馬県館林市から栃木県佐野市へ。

といってもほんのご近所で、

この移動の途中、スーパーに寄り

昼食タイムと洒落込むことに。

いつものように車内食です(笑)

妻が選んだ「みそパン」

佐野市名物なのかな?

満腹のお腹と共に、駐車場に到着。

田中正造生家(右)とお墓は、

道路を挟んで向かいになります。

表示が見やすくて、

迷うことはありません。

「田中正造誕生地墓所」

全文を書き出すと

以下になります。

「正造翁誕生の地である

小中町においては、

浄蓮寺にある田中家歴代墓所に分骨せず、

現在地を県の許可のもとに

墓所として定めた。

この墓所内の墓碑には

カツ夫人が合祀されており、

題字は友人島田三郎が、

正造翁の蓑笠姿に矢立を持った姿は

小堀鞆音こぼりともとの筆によるものである。

また、明治三十二年(1899)

二月四日翁が自作自書した

「冬なから啼かねバならぬほとゝぎす

雲井の月にさためなけれハ」

の短歌も刻まれており、

地区住民の正造翁に対する

報恩の心情の昇華を示す貴重な史跡である。

平成十九年二月二十八日

佐野市教育委員会」

参道入口。

「義人田中正造翁之霊場」と

刻まれた古い標柱。

参拝

ここはお墓というよりも

何だか神社にお参りする感覚になります。

墓石には立派な覆屋があり、

大切にされている感満載です!

参拝前に、

左側の案内を確認してみます。

「田中正造翁の墓」

「田中正造翁は天保十二年(1841)、

ここ小中の地に

名主富蔵の長男として生まれ、

後に父の跡を継ぎ名主となって

領主の旗本六角家改革事件で活躍しました。

明治時代になると

自由民権運動家として政治の道に進み、

栃木県会議長を経て衆議院議員となり、

帝国議会で足尾鉱毒問題をとりあげ、

農民の先頭に立って活躍しました。

大正二年(1913)翁の没後、

遺骨はゆかりの地五か所に分骨されました。

この碑の蓑笠姿の正造翁は、

小中出身の画家小堀鞆音の描いたものです。

「冬なから啼かねバならぬほとゝぎす

雲井の月にさためなけれハ」(正造筆)

なお、翁に関する資料を左記の

郷土博物館で収蔵、展示しております。

佐野市郷土博物館

(財)佐野市民文化振興事業団」

このように記され、

エントランスの案内板の内容とは、

あまり被っていないのが、

読む者にとっては有難いですね。

ちなみに「旗本六角家」は、

戦国時代、観音寺城の城主であった

六角氏の末裔です。

墓碑へ。

参拝。

小堀鞆音の絵を確認。

こちらは田中正造記念館で見た

墓碑の「拓本」です。

これを見ると、

田中正造の蓑笠姿、

あまりにも似合い過ぎていて、

お墓なのに笑顔になりそうです(笑)

これを描いた小堀鞆音さん、

間違いなく超一流の画家でしょう!

墓碑裏面。

田中正造と妻カツ(勝)さんの戒名。

どちらにも仲良く、

「義」の文字が入っていますね!

参拝後は周囲の石碑などへ。

読めません(汗)

小祠。

敬神之碑。

お墓参りの後は、

田中正造旧宅へと向かいます。

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください