白虎隊士自刃の地(会津若松市・飯盛山)
冷飯は栄養に
関ヶ原の戦いで
小早川秀秋が「裏切った」
などと言いますが、
「裏切り」って何なのでしょうか?
戊辰戦争で言えば、
幕府を「裏切った」のは
外様大名だけでなく、
御三家の紀州藩をはじめ、
親藩、譜代大名も
多くいます。
そして、裏切ったからこそ
勝者になれたのも事実で、
旧体制への忠誠心などは、
蚊帳の外です(笑)
そして、
逆に会津藩は幕府を裏切る事なく、
変わらぬ忠誠を貫き、
結果、戊辰戦争で降伏し、
冷飯を食わされました。
しかし、
明治時代に活躍した会津藩出身の人は、
多々いますので、
冷飯は大いなる糧として、
栄養になったかも知れませんね。
凌霜隊の碑
白虎隊士の墓にお参り後、
自刃の地へ。
「白虎隊士自刃の地」
この案内に従い、
左方向に進もうとした時、
チラッと右側に見えたのが、
こちらの石碑です。
目指す方向とは反対側なので、
ほとんどの人は、
通り過ぎるかも知れません。
しかし、
僕たちは、呼ばれたのです・・・
「郡上藩 凌霜隊之碑」
「道ハ一筋ナリ
副長 速水小三郎」
「此の碑は戊辰の戦いに
会津侯を盟主と頼み各地に転戦して
若松城の籠城戦に参加し白虎隊と共に
奮戦死闘した
美濃國郡上藩、凌霜隊の事績を偲び
且つその霊を慰め
永くこれを後世に伝えるため
郡上の石で群民等の浄財によって
建立したものである。」
このように書かれています。
実は、たまたまこの2週間後、
郡上藩の政庁だった、
郡上八幡城へ旅する予定だったので、
僕たち二人は、
鳥肌が立つほど、
この石碑の発見に大いに感動し
興奮しました・・・
ここで、この石碑と出会えたのは、
偶然ではなく必然。
徳川家譜代であった郡上藩。
しかし、戊辰戦争では、
幕府を見限り、
「新政府側に味方する」事に。
ところが、
この藩の決定を「是」とせず、
引き続き徳川家に忠誠を続け、
会津若松で戦い、
敗戦後、
苦境に追いやられた凌霜隊士たち・・。
旅の前にこの悲劇を
知る事ができたお陰で、
郡上八幡城では、
一層深い慰霊ができたのです・・・
飯沼貞雄翁の墓
白虎隊士自刃の地は、
近いのですが、見所が多く、
あっさりとは道を通して貰えません(笑)
途中、左側に見えてくるのが、
飯盛山で自刃した
白虎隊唯一の生き残り、
飯沼貞雄翁の墓です。
飯沼貞雄翁の墓と記念碑。
まずはお墓に参拝。
「飯沼貞雄翁の墓」
「白虎隊自刃者中ただ一人蘇生した
飯沼貞吉(のち貞雄)は、
印出新蔵の妻ハツに助けられました。
後に逓信省の技師となり、
仙台逓信管理局工務部長に進み、
我が国の通信事業に多大な貢献を果たし、
昭和6年(1931年)
仙台市で78歳の生涯を閉じました。
白虎隊の実録は、
彼によって知ることができました。
戊辰戦役90年祭が行われた
昭和32年(1957年)、
多くの友が眠るこの地に遺髪などが移され、
墓碑と顕彰碑が
財団法人前島会仙台支部によって
建てられました。」
こう書かれています。
飯沼さん、
死ぬまで一度も会津若松には
帰らなかったそうです。
「なんで死ななかったんだ!」なんて
心ない事を言う人もいたようだし
やはり居ずらかったのでしょう・・・。
第二次大戦時の特攻隊でも
必死の覚悟で出撃したものの
飛行機の不調などで、
基地に戻ってきた隊員が、
「この死に損ないめが!」と罵られ、
懲罰を加えられることは
多々あったようです。
自分本位な生き物、
それが「人間」なのかも知れません・・・
悲しいな・・・。
記念碑の案内。
白虎隊士自刃の地
遂に自刃の地へ。
墓地の真ん中あたりが自刃の地です。
慰霊塔に参拝。
白虎隊士石像。
「白虎隊士石像が
のぞんでいる方向が
鶴ヶ城です」
このように案内されていますので、
その視線の先を見ると・・・
会津若松市が一望できますね!
そして、
小さく鶴ヶ城(会津若松城)が
見えていますよ!
少しズームして撮影。
白いポールが、
お城の方向を示しています。
さらにアップして撮影。
白虎隊士たち、
周囲の街や木が燃えていたのを
鶴ヶ城が落城したと思い、
自刃したのです・・・
こちらは鶴ヶ城天守から見た飯盛山。
白いポールの先が自刃の地です。
白いポールいい仕事してますね(笑)
飯沼貞雄翁の墓を通り、
帰路につきます。
枝に残った桜の花びらと
散って道に広がる花びらを見て
思い出したのが、
島根県の松江護國神社で
御朱印帳に書いて頂いた言葉、
「散る桜 残る桜も 散る桜」。
白虎隊士、凌霜隊士、
そして、僕たちも含めて
すべての人が、「散る桜」。
いい風景を見られたものです・・・
参道を下り、駐車場へ。
飯盛山、
白虎隊士鎮魂の山として、
また唯一無二の建築物、
「さざえ堂」の建つ場所として、
忘れられない思い出になりました。