東向寺(西尾市)今川義元公首塚

3割引きの思い出(笑)
今川義元の胴塚にお参りした
豊川市の大聖寺から
義元公の首塚がある西尾市の東向寺へ。
知多半島(左)と渥美半島(右)、
いわゆる「カニのハサミ」の
頭に当たる部分が目指す東向寺ですが、
主に名豊道路の一部、
岡崎バイパスを通るルートで、
超快適なドライブができます。
そんな快適さとは裏腹に
腹ペコになった僕たちは、
道の駅「筆柿の里 幸田」に立ち寄り、
「車内飯」の準備をすることに。
14時を過ぎでいたので、
食べ物関係は売り切れかと思つつ、
多くを期待していなかったのですが、
そこには、
美味そうな弁当があったのです!
しかも、
「全商品30割引き」という
めっちゃ嬉しい張り紙もあり、
これなら即決しかありません(笑)
僕のかき揚げ丼は、385円に!
妻のオムそばは、278円に!
こうして、
夫婦合わせて663円で、
美味しくて大満足の車内飯を完食。
3割引の忘れられない思い出、
僕たちの一生の宝物です(笑)
今川義元公首塚
岡崎バイパスを降り、
少し走ると東向寺が見えてきます。
寺号標。
駐車場は広くて安心。
お寺へ。
「西国三十三観音巡拝案内」
西国三十三箇所巡りが、
このお寺の境内で完結するという
便利この上なく、有難いものです。
本堂が見えていますが、
僕たちが先ず行くのは右側の首塚です。
お〜これは親切な!
ここまでして頂くと、
迷い方が分かりません(笑)
スタート。
案内にあった、
一番観音堂「青岸渡寺」。
6年前に参拝した思い出は、
日本一大きい鰐口です。
1590年、豊臣秀吉の奉納で、
直径は1.3mを超えています。
話は戻って、首塚です(笑)
「三界萬霊」の宝篋印塔。
さらに登って・・・
首塚のエントランスに到着。
「伝 今川義元公 首塚」
首塚の部分を抜粋すると
以下になります。
「永禄三年(1560)、
桶狭間の合戦において
討死にした義元の首は、
織田軍によって持ち去られ、
胴体は家臣たちにより
豊川市牛久保の大聖寺に葬られた。
首は信長の検分後、
美濃の須ケ口付近にさらされていたが、
鳴海城主
岡部五郎兵衛門元信のところへ返された。
元信は城を出て、池鯉鮒(知立)より、
刈谷城を攻略ののち駿府城へ帰ったが、
途中須美峠(幸田町)を通り、
手前の西麓口の当寺に立ち寄り、
義元の首や戦死者を
葬ったと伝えられている。」
義元公の首を埋葬した
岡部五郎兵衛門元信さん、
後年、武田の家臣となり、
高天神城の城主として、
徳川家康と戦い、
最後は玉砕しています・・・
首塚の手前、
露払い的にいらっしゃる
「役行者像」にご挨拶。
「伝首塚」
手前には家臣の方々が
並んで眠っているのでしょう・・
まずは皆様に参拝。
生花が真新しく、
大切に弔われている感が、
ひしひし伝わってきます・・・
義元さんに参拝。
歴史を紡いでくれて、
感謝しています・・・
本堂
次に本堂の参拝へと向かいます。
境内へ。
案内にあるお寺の由緒を
抜粋してみます。
「当山は貞観の初期(859〜864)、
僧円仁(後の慈覚大師)によって
開基されたもので、
往古は天台寺院であった。
後年、
明応年間(1493〜1501)に
旧中島村の崇福寺初代天佑上人の弟子
光佑上人が入寺し、
浄土宗に改宗し東向寺とした。
第四世徳順上人は
今川義元の伯父と伝えられ、
甥の義元は深く帰依して、
供田を寄せたり、
禁制を出したりしていたと云われている。」
開基の円仁さんも
頭蓋骨は立石寺(山寺)、胴は延暦寺と
分かれて埋葬されていますので、
なんとなく繋がりを感じます(笑)
参拝。
手前の小さなお堂にも参拝。
お地蔵様かな?
弘法大師ですね。
ここも生花は瑞々しく、
やはり大切にされている感満載です。
今川義元公、
こんなに暖かなお寺に葬ってもらい、
本当に幸せですね!