江戸城(天守復元模型)

 

係の方の機転でハッピーに!

写真を撮りたい時、

あまりにも多くの人が映り込むのは、

困ります(笑)

江戸城天守復元模型に関しては、

小さな部屋の中なので尚更ですが、

僕たちがその建物に到着した瞬間、

係の方が、

「もうすぐ小学生の団体が来ますよ!」

そう告げてくれたのです。

その言葉の裏側には、

「もうすぐ、めっちゃ騒がしくなって

ゆっくり見学もできなくなりますよ!

お早くどうぞ!」

という意思表示を感じ、

早速、天守の写真を撮影し、

その後、案内をじっくり読むことに・・・

そして撮影が終わった直後、

やって来ました小学生軍団が!

もちろん、

予想通りの展開が繰り広げられたのは

言うまでもありませんね(笑)

係の方の機転と優しいお気遣い、

改めて感謝です。

中雀(ちゅうじゃく)門

大番所を見学したら

次はいよいよ本丸です。

中之門から中雀門へ。

中雀門。

ここは文久三年(1863)、

本丸御殿の焼失時に類焼し、

石垣の石は破裂して、

切込み接ぎの石垣は、

まるで打込み接ぎのように、

歪な形になっています。

但し、それは、それで、

歴史を感じられ、

趣の一つになっているので、

これはそのまま残しておいて

大正解でしょう。

本丸休息所増築棟

中雀門を通過すると

遂に本丸に到着です。

ここからは御三家の殿様も

籠を下りて歩かなければいけません。

もちろん僕たちも籠を下りて・・・

いや、

籠を下りる想像をしながら(笑)

江戸城天守復元模型がある

本丸休息所別棟へ。

本丸入って右側に少し行くと、

目指す建物が見えてきます。

入口の案内。

この中には、

三代将軍、家光さんが建てた、

寛永期の天守を1/30のスケールで

再現されています。

ここで冒頭に書いた

「係の方のお言葉」があり、

僕たちは復元天守を堪能できたのです。

江戸城天守復元模型(外観)

まずは、写真撮影スタート。

入って正面。

嵐が来る前の静けさ(笑)

この瞬間は、僕たちだけで、

天守を独占です。

左斜から。

右斜から。

真後ろから。

江戸城天守復元模型(案内)

写真撮影完了と同時に、

嵐はやって来ました(笑)

しかし、天守復元模型の

撮影を完了した僕たちは、

後は案内を読むだけなので、

何の支障もありません。

「日本一高層の天守」

文章を書き出すと次のようになります。

「江戸時代、

この場所が江戸城の中心、本丸でした。

江戸時代の初期には、この本丸に3度、

天守が築かれました。

この模型は、そのうちの最後のもので、

最も大きかった

寛永期の天守を復元したものです。

五重6階の建物と石垣の天守台を合わせた

高さは約60m、20階建てビルに相当し、

この天守は日本にあった

いろいろな天守の中で最も高いものでした。

建物の壁は銅板と漆喰、

破風には飾り金具が付き、

屋根は銅瓦葺で、最上の棟に

金色の鯱が輝いていたと思われます。

南側の小天守台から石段を登り、

天守内に入ったと考えられます。

本丸の標高を入れると約80mになり、

江戸の町にそびえ立つ豪壮な天守でした。」

生まれながらの将軍(跡継ぎ)で、

お金に全く困った事がない(多分)

家光さんは、とにかく金遣いが荒い(笑)

父、祖父の天守を超える

最大のものを建てています。

しかし、家光さん、

金遣いが荒いだけの放蕩ではなく、

島原の乱を平定したり、

ポルトガル人を追い出した

出島での鎖国政策や

参勤交代の義務化、

加藤清正の息子である

加藤忠広を改易したりと

江戸幕府が安定して存続するために

数々の施策を断行しています。

天守の位置と屏風絵。

天守の大きさ比較。

実際の姫路城の天守の高さは、

標高で言えば、90m位なので、

遠目からは、めっちゃ高く見えます。

「幕府の大棟梁関係図面、

江戸図屏風等を参考」

文章を抜粋すると

「模型の設計にあたって、建築構造は

「甲良(こうら)家文書」の

図面を基にしました。

屋根、壁、金具類等の材質や色彩は

「江戸図屏風」の

天守の絵を参考にしました。」

このように書かれています。

甲良家に伝わる図面。

「江戸城御本丸御天守百分の一建地割」

「江戸城御本丸御天守閣建方之図」

「江戸城御本丸御天守閣外面之図」

「石垣まで造られ中止された4代目の天守」

案内を書き出すと次のようになります。

「現在、本丸北隅に残る石垣は、

明暦の大火の翌年、

万治元年(1658年)に

加賀藩が担当して再建された天守台です。

建物は計画図面まで描かれましたが、

再建は中止されました。

天守が無い状態が210年続き、

江戸時代は終わりました。

再建天守台は寛永期天守と

同規模の建物が乗る面積ですが、

高さは寛永期のものより

1間低く造られました。

寛永期の天守台には、

伊豆石という黒い石材が用いられましたが、

再建天守台の外周の石材は、

寛永期とは異なる

白い安山岩が用いられました。

再建天守台の内側などの一部には

黒い石材が用いられていますが、

寛永期のものを

再利用したと考えられます。」

現在残る天守台の写真。

この後、実物を見に行きます。

四代目天守の再建図。

一説によると、

徳川家光の異母弟である

保科正之が、天守建造中止を

決めたそうですが、

幕府の中枢にいたため、

将来お金が底をついて来るのを

予想出来ていたからかも知れません。

(あくまでも推測です)

これで、

江戸城天守復元模型の見学は終了、

次は、4代目天守台へと向います。

 

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