竹崎季長の墓(熊本県宇城市)
偶然の訪問
旅をしていると
思わぬ所で、突然の出会いがあります。
最近の体験では、大分県の
長宗我部信親の墓です。
以前にも小松帯刀の墓、
大村益次郎の墓などと
偶然出会っています。
何故かわかりませんが、
お墓ばかり思い出していますね(笑)。
今回は海東阿蘇神社から
甲佐神社に向かう途中、
偶然に見つけたのが、
竹崎季長のお墓です。
僕たち、なんだか、
お墓とのご縁が多いようですが、
今は見るだけで、入るのは?
ずっと先になる予定です(笑)
平原公園へ
道路脇の案内で、
竹崎季長のお墓が近いことを知り、
「だったら行くしかない!」と
脇道へ入った所にあるのが、
こんな案内です。
「竹崎季長桜街道」。
ここから竹崎季長のお墓がある
平原公園までの1500mが
その「街道」でしょう。
途中、道に迷ったものの
無事平原公園に到着。
地方の観光地ではありがちですが、
ここでも僕たち二人だけで、
公園を独占です(笑)
平原公園案内図。
公園やお墓、記念碑などの案内。
竹崎季長の墓
駐車場から一番に向かったのは、
やはりお墓です。
竹崎季長の墓まで100m。
もう少し。
竹崎季長の墓にお参り。
先程の案内を抜粋すると、
「墓は、永いあいだ所在もわからないほど
草木に埋もれていましたが、
明治二十七年(1894年)に発見、
確認されました。
かたちは、征夷大将軍源頼朝の墓と
同系の五輪塔です。(後略)」
このように書かれています。
五輪塔の古さが、
鎌倉時代を思わせます。
お墓の周囲や後ろには、
竹崎季長に従うように
いくつものお墓があります。
家臣などのお墓なのかも知れません。
元寇記念碑
次に元寇記念碑へ。
記念碑の遠景。
そして、撮影場所のすぐ左側にあるのが、
こちらの案内です。
「海棠(かいどう)の由来」
竹崎季長は、
バラ科の花である
海棠(かいどう)の夢を見て、
海東を恩賞として貰ったことが書かれ、
その海棠(バラ)が植えられています。
海棠は海東に通ずるという事で、
正夢だったわけですね。
また、この案内文は、
竹崎季長を支えた
藤井末成の子孫の方が書かれています。
その藤井末成についても
詳しく案内されています。
元寇記念碑下の右側に
ひっそりと佇むのがその案内板です。
一祝末成(藤井末成)の顕彰文。
藤井末成は神官で、元寇での恩賞を
幕府へ直訴する際の恩人であり
後に優秀な部下として領地をおさめ、
蒙古襲来絵詞制作の経済基盤は、
藤井末成の手腕によるところが
大きいと書かれています。
元寇記念碑の左下の
竹崎季長墳墓公園の案内。
その文中、
「蒙古合戦の戦功者は
全国で120名にもおよびましたが、
季長はただ一人幕府の下文をもって
恩賞を給り、海東郷地頭に任命されました」
このように書かれています。
元寇以来鎌倉幕府が弱体化した
一番の原因はここでしょう。
防御戦に勝っても新たな
敵地(土地)が手に入るわけではなく、
頑張って貰ったけど、
何もやるものが無い・・・
結局、恩賞はめっちゃ少ない、
あるいは、無視・・・
だから人の心は離れてしまう・・・
そんな幕府の窮状がよくわかる一文ですね。
大きな戦費と人を失っても
何も得られなかった
豊臣秀吉の朝鮮出兵後の
武将たちもこれと同じ気持ちだったでしょう。
豊臣家は滅びていったのと似ていますね。
石段で記念碑へ。
元寇記念碑。
駐車場の案内によると
「元寇記念碑(大正六年建立)
碑文字は、連合艦隊司令長官、
東郷平八郎元帥の書で季長の言葉
「弓箭のみちすすむをもてしやうとす」と
刻まれており、
その文字上部に、
季長の旗指紋「三つ目結い吉」がつけられ、
台座には清浦奎吾子爵
(熊本県出身の首相)の
碑文があります。」
このように書かれています。
裏側。
「三つ目結い吉」を見て、
竹崎季長のお墓訪問は完了です。