長宗我部信親墓(大分市)

 

車で走れば墓に当たる

最近、武将のお墓参りにも

はまっている僕たち(笑)、

佐伯市から大分駅に向かう途中、

偶然にも長宗我部信親のお墓を発見。

以前、鹿児島で、

幕末活躍した薩摩藩家老、

小松帯刀の墓

山口市で、

大村益次郎の墓を見つけて以来、

記憶に残る、

「偶然の発見&訪問」となりました。

時速40Kmくらいで走っていても

道端の案内を見落とさないくらい、

常に僕たちの頭には「お墓」が

染み付いているのでしょうね(笑)

お墓の発見

この日、大分市の日没は17時過ぎ。

通りがかりで、長宗我部信親の墓を

発見したのは、既に日没をかなり過ぎた、

17時30分近くの事。

写真撮影するには、

かなり厳しい時間帯ですが、

この時間、お墓の上空は

雲ひとつない快晴で、

まだ明るさが残っていたのは、

長宗我部信親さんに

歓迎されたからかも知れません。

こちらがお墓の案内。

メイン道路から約100mで、

目的地に到着。

広い駐車場も完備されていて、

訪問者にはありがたい場所です。

立派な案内。

1586年に起きた

戸次(へつぎ)川原の合戦について、

詳しく書かれています。

島津家久率いる島津軍と

豊臣秀吉の軍監である仙石秀久、

秀吉に降伏したばかりの

長宗我部元親・長宗我部信親父子、

四国ではその親子の宿敵で

何度となく戦った

十河存保(そごう まさやす)など

豊臣連合軍との戦いで、

島津軍の戦法、

「釣り野伏せ」により

豊臣軍の大敗となっています。

この「釣り野伏せ」は、

この戦いの2年前、

龍造寺隆信が討ち取られた

沖田畷の戦いで使われていますが、

豊臣方は、この戦いを

全く研究していなかったのでしょうか。

いや、呉越同舟的な豊臣連合軍が、

家の存続と名誉を一身に背負って

一致団結した薩摩軍兵士の

旺盛な戦闘意欲の前に

敗れ去るのは、自明の事・・・。

いずれにしろ

この合戦で、長曾我部元親の嫡男、

信親が討ち死にした事で、

長宗我部氏は滅亡への道へ、

歩み始めたと言えるでしょう・・・

彼の戦死後、父である元親は

まるでやる気が無くなってしまったそうで、

それほどまでに期待の星だった、

嫡男信親でした・・・。

戸次川の戦いで亡くなった方の慰霊碑。

長宗我部信親の墓。

お参り。

五輪塔ではなく、

今風な感じなデザインです。

記念碑。

多田一族慰霊標。

十河一族慰霊碑。

実は、これ、裏側なんです(汗)

なんかシンプルだな~と思いながらも

反対側に回らなかったのが運の尽き(笑)

また、いつしか表から参拝しよう!

不動明王。

お地蔵様。

無数の小さなお地蔵様群。

妻曰く、

「全部カップルになってない?」

確かになってます!

どんな意味があるのかは

わかりませんが、

お地蔵様もまた戸次川合戦の

鎮魂の一つでしょうか・・・。

最後に訪問したのは、

お墓から少し離れた場所にある鎧塚。

ここに長宗我部信親の

鎧を埋めたのかも・・・

これにて、偶然に出会った

長宗我部信親墓の訪問は完了です。

 

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