薦野増時の墓(福岡県古賀市)
2つの墓に眠る忠臣
関ヶ原の戦いで西軍に味方し
改易された後、20年経って、
柳川藩の藩主に返り咲いた立花宗茂。
その宗茂の父、立花道雪は、
大友家の重臣で立花山城の城代
であり、薦野(こもの)増時は、
その道雪の与力として多くの戦いで
功績を挙げた文武に長けた有能な人でした。
その忠臣ぶりは、死後、立花道雪の
お墓の隣に自分の墓を作るという
約束までしており、
立花家が改易された後、
黒田家に仕え、亡くなった時、
その約束は果たされ、
今も城跡が残る立花山の麓に鎮座する
梅岳寺(ばいがくじ)に眠っています。
そして、
僕たちは数年前、立花山城に行った時、
写真を撮っていました。
真ん中が立花道雪、右が道雪の母、
左の少し低く小さく造られているのが
薦野増時の墓です。
この光景を見ると、
立花道雪の器量の大きさと
薦野増時の人柄が、お墓を通して
眼の前に広がってくる気がしました。
そして、今回行ったのは分骨元である
もう一つの薦野増時の墓です。
薦野増時の墓へ
古賀市薦野という住所のまま
今も残る「こもの」という地名。
まさに、ここが薦野増時の本拠地でした。
今は戦国の戦いとは無縁の
平和な景色・・・。
ここから少し登ると、薦野城の出城的な、
小松岡砦があります。
草原の中の一角だけが、
こんもりと生い茂った森になっていて、
ここには、何かある予感がします。
まるで木々が、
この中を守っているというか、
外に向かって入口を覆うかのような
枝ぶりが不思議です。
一歩木々の中に入ると
外界はほぼ閉ざされます・・・
小松岡砦の石碑。
薦野増時の案内。
黒田家に仕えてから、「黒田姓を賜り」
と書かれていますから
相当な信用度だったのでしょう。
ここからお墓に向かいます。
薦野増時から数えて
五代目の人物の墓。
薦野氏の祖である
薦野峯延の850回忌に建てられた
顕彰碑(墓碑)。
奥へ進みます。
薦野増時の墓。
薦野増時の息子、成家(しげいえ)の妻、
信解院(しんげいん)の墓。
信解院は立花宗茂の妹ですから
薦野増時という人、上司から厚い
信任を受けていたのが、
ここでもわかりますね。
薦野家供養塔。
お墓から頭上を見上げると
木々の中にいることを再認識します。
砦跡の一角に薦野城の
方向が示されています。
今もお城の麓、砦跡に眠る薦野増時、
この景色の中で静かに81歳の
生涯を閉じられたのは、
戦国武将として、幸運だったのでしょう。