東勝寺跡(鎌倉市)
執権5人が同時に滅亡
東勝寺跡は、
150年続いた鎌倉幕府滅亡の地。
調べてみると、
実質的な支配者である「執権」は、
源頼朝が死んだ以降、
130年ほどの間に、全部で17代で、
そのうち最後の5代全員が、
鎌倉幕府滅亡時期に亡くなっています。
短期間に執権が入れ替わるのは、
執権の権威も、求心力も
かなり低下していたからでしょうが、
そんな執権経験者を含め一族皆が、
仲良く?死出の旅を選んだ事に、
壇の浦で滅亡した平家の儚さに
相通じる所を感じます。
東勝寺跡へ
鶴岡八幡宮から東勝寺跡へは
徒歩で、約7~8分の距離。
意外と近いので、
体力が著しく低下した僕たちでも
何とかたどり着ける距離です(笑)
鶴岡八幡宮の境内を出て、
左側(東側)に曲がり、
少し行くと細い路地が続きます。
江戸時代以前からの道でしょうか?
大通りの賑わいとは別世界の
「静かな鎌倉」を満喫できます。
案内。
「北条高時腹切りやぐら」は
落石により立入禁止です」
この文言をは見逃していました(汗)
途中に建つ石碑。
北条時宗、貞時に仕えた、
清廉潔白な武士、
青砥藤綱という方の逸話が書かれた
顕彰碑的なものです。
大正時代に架けられた東勝寺橋。
かまくら景観百選に入っているそうです。
東勝寺跡。
案内を書き出すと
以下になります。
「東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府
第三代執権の北条泰時により、
得宗(北条氏の嫡流)家の氏寺として
創建されました。
様々な宗派を学ぶ
諸宗兼学の寺院であるとともに、
周辺の地形と一体となった
防御のための城郭的な機能も
持っていたと考えられています。
元弘3年(1333)年、
新田義貞らの鎌倉攻めにより、
幕府の最高権力者であった
北条高時は東勝寺で
一族郎党とともに自害し、
鎌倉幕府は滅亡しました。
平成8・9年(1996・1997)に
行われた発掘調査では、
幕府滅亡時に焼失したと
考えられる建物の跡と、
それを覆う10数cmの
炭の層が発見されました。
焼失後まもなく、
東勝寺は禅宗寺院として再興され、
室町時代には関東十刹に列せられましたが、
16世紀後半ごろには
途絶えたと考えられています。」
ここから山側に行くと、
ハイキングコースの案内があります。
山の上からは、
見晴らしが良さそうだな~
なんて思いながら
北条高時をはじめ、
一族郎党の菩提を弔うために作られた、
「腹切やぐら」のある、
東勝寺の奥へ進むと・・・
え~!!!
何じゃこりゃ!
立入禁止なんだ・・・
途中の案内を見逃してたので、
大いにビックリです。
ここから北条高時さんはじめ、
一族郎党の方々に合掌・・・。
その後、ここから見える
石碑などの確認です。
「腹切やぐら」
「霊処浄域につき
参拝以外立入禁止
宝戒寺」
なるほど、
現在は宝戒寺さんが、
ここを守っているのですね。
ちなみに鎌倉で言う「やぐら」とは、
横穴式のお墓を指す言葉で、
お城の櫓とは全く別物です。
大正七年に建てられた石碑。
元弘三年、新田さんに攻められ、
ここに、870人余が立て籠もり、
滅亡した事が書かれています。
ここで、
東勝寺跡の訪問は終わるはずでしたが、
どうしても「やぐら」の痕跡が無いかと、
案内が建っていた平地へと戻り、
探してみました・・・
東勝寺跡の奥に
何か「穴」を発見!
お~これは、「やぐら」ですね!
もしかすると、
北条氏関係の方が、
弔われていた跡かも知れません。
いつしか東勝寺跡が復興され、
「腹切やぐら」にお参りできる日が
来ることを心から願っています・・・