筑波海軍航空隊記念館・旧司令部庁舎

妻の過去
過去といっても前世の話です(笑)
どういう訳か妻は、
子供の頃から軍歌が大好きで、
いつも小学校で歌いまくり、
ビックリされていたそうです。
前世の記憶を持つ子供の話は、
世界中に星の数ほどありますが、
その中の一人かも知れません。
妻の場合、記憶ではないけれど、
「関係先」に行くと、
涙が止まらなくなったりします・・
また、
福岡県の稲童1号掩体壕訪問時などは、
一式陸攻や銀河などを格納した
大型の掩体壕の前で、
「同期の桜」を大きな声で歌い出し
「同期の慰霊」をした事もあります。
掩体壕前で歌う妻・・・
そして、
筑波海軍航空隊を訪問するなら
どうしても旧司令部庁舎に
入りたいと言っていた妻、
もしかしたら妻の前世は、
筑波航空隊から飛び立った、
特攻隊員だったのかも知れません。
旧司令部庁舎・内覧
成田空港からの福岡便に間に合わせるべく、
筑波海軍航空隊記念館での持ち時間は、
当初予定の半分、約30分。
先に言うと18時45発の福岡便には
間に合っています(笑)
この便が頭の中を支配していた僕達、
じっくり見学なんて到底無理な中、
先に屋外遺構の号令台を見学後内覧へ。
案内を書き出すと以下になります。
「かつてここには、
旧海軍の航空隊がありました。
1934年(昭和9年)に
霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊として設立、
1938年(昭和13年)に
筑波海軍航空隊と改称され、
同年海軍航空隊司令部庁舎が
建てられました。
多くの若者が主に戦闘機の操縦訓練を
行いましたが戦局が厳しくなると、
体当たりを前提とした
航空隊設立の準備が進められ、
その後、特攻隊が組織されました。
1945年(昭和20年)の
太平洋戦争終結と共にその役割を終えた
旧海軍航空隊司令部庁舎は、
ほぼ当時の姿のまま現存し、
現在記念館として公開されています。
多くの史跡を現在に伝え、
高い文化的価値を有すると共に
戦争、特に特攻の歴史を後世へ伝える
シンボルとなっています。」
戦後80年、
よくぞそのままの姿を残してくれたものです。
記憶を辿るならば、記録が大切、
その大切な記録でも「見た目」は、
さらに大切ですから・・
旧司令部庁舎向かって右側が、
入口となっています。
受付のある記念館から一旦外に出て、
すぐ隣の旧司令部庁舎入口へ。
さりげなく置かれた親切な案内板が、
訪問者を歓迎してくれています。
庁舎内廊下。
歴史を感じさせる階段。
模擬魚雷(航空魚雷)。
この魚雷で訓練を受けられた飛行学生は、
ある意味、幸せだったかも知れません。
特攻と違い「必死」ではなく
生還の可能性がある
訓練だったのですから・・
エンジン・計器版、タイヤなど。
太平洋戦争と笠間。
空襲を受けた柱。
グラマンF6Fの機銃掃射の
貫通穴があるそうです・・
筑波海軍航空隊の黎明期から
太平洋戦争勃発まで。
フィリピン〜沖縄戦の特攻など。
ここで突然妻の雄叫びが(笑)
「司令室に行きたい!」
という事で、司令室方面へ。
ここから上へ。
この階段には、
当時の最先端技術(多分)が
使われているようです。
重厚な階段の風景。
ここを上がった部屋で見つけたのが、
こちらの案内です。
ゴジラのロケセット再現。
ゴジラに興味が無いので、
少しだけ見ることに。
ロケセットその1
ロケセットその2
ここからが本番、
妻の本命、司令室へ。
入室。
重厚感溢れる机と本棚。
格天井の案内。
確かに寺社や御殿では、
よく見られますので、
やはり階級が高い人には、
それなりの格付けが必要なのでしょう。
書庫も昔のまま・・
詳しい説明。
こんなものにも海軍のマークが
彫り込まれています。
天井の梁装飾、映画との対比。
他に人はいないので、
妻がある事を決行・・・
司令官に敬礼!
妻曰く
「帰って来ましたじゃなく、
行きます!の気分だった・・」
行くということは特攻ですかね・・
そして、
「ここに来られて本当に良かった!
気分が落ち着いたよ・・」
こうも言っていました。
前世の記憶が無い者には、
全く手が届かない領域の話ですが、
妻にそう言われると
単純に嬉しくなる僕なのです(笑)
「発見!!筑波空のヒミツの通路」
ここが最後の見学場所です。
この掲示で分かった事は、
筑波海軍航空隊は、
地下要塞としての機能を持たされていた
(持つ予定だった?)事です。
「要塞化までの背景」の一部を
抜粋してみます。
「この地に他の海軍航空基地と比較しても
大規模といえる
地下施設が設置された理由は、
本土決戦を前提とした
紫電・紫電改を擁する
邀撃戦闘機部隊の基地を
筑波海軍航空隊に定めたことに由来します。
当時、筑波海軍航空隊には、
基地の建物を張り巡らすように
コンクリート製の地下通路が存在しており、
地下戦闘指揮所や地下応急治療所付近まで
その規模は3キロを超えるものでした。
この調査で発見された”地下無線室”も含め、
約20ヵ所に及ぶ鉄筋コンクリート製の
地下室や多数の手掘りの退避壕、
倉庫等に使用した山間部の横穴(壕)が
存在しました。」
本土決戦があれば、
日本の国は「今の形」では
残っていなかったはず・・
北海道もロシアになっていたかも
知れません・・・
筑波海軍航空隊に来る前、
地下要塞などこんなに深い事は
全く知りませんでした・・
ここで体験して、
先人達の崇高な思いを
感じることが出来たのです・・・
「地下通路の現状」
実に素晴らしい調査をされていて、
この調査自体に、
地下通路を掘ったと同じくらいの
敬意を持ってしまいます。
「今後の活用」
人々の意見を抜粋してみます。
「地下通路の中の暗さ・深さは
やはり独特の雰囲気がある。
特に戦争末期の緊迫した雰囲気を
伝えるものだと強く感じた。
これだけ広大なものを
これだけ短い期間に作るのは
並大抵のことではなく、
関わった人たちの努力、苦労は
大変なものだったと思う。
そこまでして戦争末期の本土決戦に
備えなければならなかったという
真意が感じ取れる。」
「全国的に見て海軍航空隊で
保存されている施設はあるが、
全体像が分からずごく一部なことが多い、
今回のように全体的に
残されている遺構は非常に重要」
「悩ましいのは、
敷地内に病院、精神科があること。
来館者が足を運ぶ場所との
ゾーニングをできないと
解決しない問題がある。
現状病院としての機能と
戦争遺構としての機能が
混在している状況は、
位置づけをきちんとしていただき、
将来に向けてすみ分け、
形づけをしていきたい。」
最後に僕の妄想的な思いを書くと
「国として筑波海軍航空隊の遺構を
徹底調査の上、残せるものは残し、
病院との調整も国として行い、
破壊すれば二度と戻せない、
貴重な遺産を多くの人びとに
体験してもらい(見るだけじゃなく)
戦争をせず、平和を保つには、
本当は何が必要なのかを
自分の頭で考えて(ここ重要!)貰えれば、
より良い日本国になれるはず」
国を動かすなんて、
ハードルは高いでしょう・・
だけどここで思い出すのは、
童話作家、久留島武彦さんの言葉です。
「一人では何も出来ない
しかし一人が始めなければ
何も出来ない」
だから僕も発信します、
始める一人として・・
最後は妻の思い出が詰まった?
司令部庁舎前でツーショットで〆。
あっという間の30分、
されど
中身が詰まりまくりの30分、
これにて下見(笑)は完了です。