妻垣神社(宇佐市安心院)後編
神社と学校
妻垣神社の歴史は、
各所に設けられた
親切かつ詳細な案内により
その外郭を知ることが出来ます。
中でも驚いたのが、
境内に学校があった事です。
案内を少し抜粋・要約すると
以下になります。
「今から100年前、
ここには中等教育の機関が
一校もありませんでした。
大正2年、広島で教鞭をとっていた
林正木氏が帰郷し、
神職をつとめながら私財を投じ、
大正3年「騰宮学館」という
私立学校を妻垣神社の境内に
開校したのでした。
この学校のすばらしさは、
「人みな神の御子」の教えに基づき
貧富や出自、また国籍などによる
差別を一切排して、
多くの人材を輩出したことです。」
昭和20年の敗戦後、
GHQの神道指令で
騰宮学館は廃校となっていますが、
美しく保たれた境内や、
懇切丁寧な案内板など、
妻垣神社の随所に、
その崇高な遺志が、今もなお、
受け継がれていることを感じます。
頓宮(御仮屋)
本殿参拝後、
騰宮学館の跡地周辺を
散策してみました。
鳥居から敷地内へ。
頓宮。
案内。
「神幸祭の行宮。
当社神幸祭は室町幕府初代将軍
足利尊氏公によりはじまり、
参道馬場では昭和期まで
流鏑馬神事が行われていた。」
このように書かれています。
大分県の神社では、
足利尊氏公の伝承が
いくつも残っていますが、
それは尊氏さんが、
九州に落ち延びていた時、
各地を転々としていた裏付けなのかも
知れません。
騰宮学館之跡
ここには冒頭に書いた
学校の跡碑が建っています。
案内の古い写真を見ると、
昔の校舎は、
妻垣山が見える
このあたりに建っていたようです。
騰宮学館之跡(碑)。
こちらは、学校の創始者、
林正木氏の顕彰碑。
忠魂碑(慰霊塔)
妻垣神社には、
あまり類を見ないほどの
美しく整備された忠魂碑があります。
騰宮学館の敷地跡、
右奥の赤い建物が本殿で、
左側の森が忠魂碑の建つ場所です。
忠魂碑へ。
案内を抜粋・要約すると
以下になります。
「明治時代、
日露戦争にいて、宇佐郡からも
多くが出征し、十数名の戦死者をだした。
亡くなった兵士たちは東京の靖国神社、
大分市の護國神社に祀られたが、
宇佐郡からの参拝は遠すぎたので、
招魂祭を行うため、
妻垣神社の隣接地に
忠魂碑を建立することを決意。
明治四十四年十月二十一日完成、
十二月十八日、1000人を超える
参列者のもと第一回招魂祭が
盛大に斎行された。」
「戦争経験者の減少により
招魂祭は中断するが、
忠魂碑建立百年が経過した
平成二十三年(2011)、
妻垣神社主催による
「宇佐両院戦没者慰霊祭」として
復活し今日に至る」
忠魂碑の傍に建つ、
共同墓地の案内。
内容を要約すると
以下になります、
「昭和二十八年(1953)四月、
忠魂碑の改修工事を行い、
周囲に旧安心院町出身の戦没者
二二二人の供養塔を一基ずつ建立し
八月には慰霊祭を斎行してきた。」
一人ひとりの供養塔を建てるとは、
御英霊の方々やご遺族も
さぞかし心が安らがれる事でしょう。
なんだか、
高杉晋作が造った下関にある
櫻山神社の招魂場を思い出します・・・
忠魂碑(共同墓地)へ。
参拝。
碑文は総理大臣、
陸軍大臣を務めた桂太郎の謹書。
忠魂碑の下には石祠も鎮座。
忠魂碑全体像。
灯籠や拝殿も昔の写真と同じですね。
忠魂碑近くの石祠群に参拝。
伝承(地)
妻垣神社の伝承(地)は、
数多くあります。
「足一の印岩」
神武天皇の母、
玉依姫の足跡が残る岩で、
240m歩く気力がなく、
案内のみで終了です(汗)
「薬師堂(南の薬師)と観音寺」
「鎌倉時代に配置された
東西南北を護る薬師堂の一つで、
妻垣神社裏参道ドン淵あたりの絶壁
(薬師岩)の薬師堂は
南の守護である」
このように書かれています。
神仏習合時代の名残でしょう。
「龍の駒 足形石」
案内を書き出すと
「ここ共鑰山(ともがきやま)には、
「馬城(まき)の峰と同じく、
八幡大菩薩が人皇(応神天皇)の昔、
龍の駒に乗り、この山に飛び翔けた」
という
「龍の駒、蹄跡の伝承が、字権現」にも、
伝えられてきたが、
場所が崩落の可能性がある為、
今回、当所に「移転復元」したものである。」
このようになります。
妻垣神社の元宮「足一騰宮」への道。
340mを往復する気力がなく(汗)
ここから眺めただけです。
磐座の案内。
案内の最後に、
「「安心院(あじむ)」の名称は
玉依姫様が、この磐座の院の内において
「安心」された事が、由来する訳である。」
このように書かれています。
そうだったのか~安心院の「語源」!
最後は本殿横でツーショット。
これにて妻垣神社参拝は完了です。