2022/03/07

不動院(広島市)

 

見落としたものリスト

いつものように、

ここでも見落としが多く、

まるで次回の訪問を

催促されているかのようです(笑)

見落としたのは、

豊臣秀吉遺髪塔、

福島正則供養塔、

安国寺恵瓊墓、

武田刑部少輔墓など・・・。

国宝の金堂や、

国指定重要文化財の

楼門、鐘楼堂ばかりに目がいって、

視野が狭くなっていたのは、

いつもの事ですけどね(笑)

参道

広島駅から車で約10分、

不動院に到着。

参道入口。

ここで注目なのが、

こちらの案内です。

有り難し!

ここに案内があれば、

全く迷うこともなく駐車場へ行け

悩む事もありません。

たった、この案内一つで、

不動院が大好きになります(笑)

少し歩くと、

燈籠の先に楼門が見え、

その手前に幾つかの

お寺の案内があります。

二葉の里 歴史の散歩道。

不動院は、散歩コースの一部を構成。

被爆建物の案内。

お寺の詳しい案内や文化財の紹介。

Wikipediaとミックスして書き出すと

「創建年代や由緒については

判然としていませんが、

本尊薬師如来像が、

定朝様式であることから

平安時代には創建されていたと

推察されています。

安国寺不動院と呼ばれる由縁は、

足利尊氏、直義兄弟が

日本六十余州に設立した

安国寺の一寺であったことに由来します。

安芸安国寺として、又、

安芸国守護武田氏の

菩提寺として繁栄しました。

しかし、戦国時代には

武田氏と大内氏の戦いにより

安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。

その後、当寺を復興したのが、

毛利氏の外交僧であり

豊臣秀吉公直臣大名として

戦国の世に名高い安国寺恵瓊で、

金堂、楼門、鐘楼、方丈などを復興し、

寺は隆盛を極めました

その後毛利氏が転封となった後は

一時衰退したものの、

関ケ原の戦い後入封した福島正則、

その後広島藩主となった

浅野家の保護のもと

安定した時期が続き、

明治維新を迎えています。」

安国寺恵瓊と言えば、

関ケ原の戦いで負け、捕縛され、

石田三成とともに斬首された事が、

有名ですが、

実は、こんなに凄いお寺を

復興していたんですね。

しかも

建築物もそのまま残っているし!

最後は非業の死であっても、

死して名を残すという意味では、

出雲大社はじめ白髭神社

竹生島神社など、

多くの寺社を再興した豊臣秀頼さん、

筥崎八幡宮の本殿などを寄進した

大内義隆さんと同じようなものでしょう。

境内図を拡大。

ここに書いてあったのを

見落としたのが冒頭のリストです。

楼門

そして、楼門へ。

正面。

強烈な朝日が僕達を照らし、

歓迎ムードいっぱいです(笑)

木製仁王像。

吽形。

金網が写り込んでいますが、

iPhoneで撮影すれば、

問題無かったことに、

今気づきました(汗)

境内側から撮影した楼門。

ここで、疑問が・・・

何故ここではお寺なのに

山門(三門)ではなく、

「楼門」という呼称が、

使われているのでしょうか?

そう思ってWikipediaを見ると

「楼門 – 文禄3年(1594年)の建築。

「楼門」と称するが、建築形式的には

「楼門」でなく「二重門」

(上層・下層境にも軒の張り出しをつくる)

である。」

このように書かれています。

なんとなく理解出来たような

そうでないような(笑)

金堂

次に国宝の金堂へ。

楼門と金堂

心字池から見た金堂。

正面。

歴史を感じさせる

素晴らしい建物ですね!

金堂についてWikipediaによると

「天井の墨書から

天文9年(1540年)の建築と判明する。

屋根は入母屋造、柿(こけら)葺き。

2階建てのように見えるが、

構造的には一重裳階(もこし)付きで、

桁行3間、梁間4間の身舎(もや)の

周囲に裳階をめぐらす。

裳階は正面側の

奥行1間分を吹き放しとする。」

「この堂は当初から不動院に

あったものではなく、もとは山口市にあった。

金堂があった元の寺はどこかは

長年、謎とされていたが、

横浜国立大名誉教授の

関口欣也(建築史)によって、

戦国時代末期の

天正年間(1573-1592年)に、

当時の往職の安国寺恵瓊によって

山口市の香積寺(現在の瑠璃光寺)から

移築されたことが明らかにされた。

これ以前は、禅宗寺院で

大内氏の菩提寺であった

凌雲寺からの移築とされていた。」

国宝の五重塔が建つ瑠璃光寺、

もし、

不動院に金堂が移設されなければ、

現在の瑠璃光寺には

2つの国宝が存在したかも知れないし、

何らかの理由で、

金堂は無くなっていたかも知れません。

結果として、

ここに移築されたのは必然だったのでしょう。

右斜から撮影。

斜め後方から楼門とともに。

鐘楼堂

次に鐘楼堂へ。

右斜から。

永享五年(1433)の建立。

天正時代に安国寺恵瓊によって

どこからか不動院に移設されていて、

中の梵鐘は安国寺恵瓊が

秀吉の朝鮮出兵時に、

朝鮮から持ち帰ったものだそうです。

言わば「戦利品」かな?(笑)

境内側から。

ここで、楼門~金堂~鐘楼堂の並びを

動画で撮影してみました。

静かに佇む不動院の歴史的建造物達。

よくぞ原爆を逃れてくれたものです・・・

本堂

ようやく本堂へ。

本堂正面。

そして、左横にあるのが、

悲しいお話です・・・

ーあの日の不動院ー

「不動院は爆心地から

3.9キロメートル、

市の中心部からかなり離れた

山麓に位置しているため

爆風による被害以外、

大きな被害を受ける事は無かった。

(中略)

しかし市の中心部で

被爆した人達が郊外へ逃れる

道筋であったために、

(中略)

不動院の境内には、被爆者があふれ、

修羅場と化した。

山門前では衛生兵や地域の住民が出て、

被爆者救護のため

ドラム缶入りの大豆油を用意して

火傷の治療を開始したが、

順番待ちの列の中で治療を待ちきれず

息絶えた人も多かったという。

(後略)」

・・・・

昔、原爆資料館で見た光景が、

頭に蘇ってきます・・・

ここも修羅場だったのですね・・・

ガラガラを回して参拝。

稲荷社

本堂の次は稲荷社へ。

参道。

参拝。

本殿は石段の上。

稲荷社の左側にいらっしゃる

牛の守護佛、法起菩薩。

牛のお顔が優しくて、

思わず撮影。

石仏・お地蔵様など

まずは、不動明王へ。

参拝。

まとめて参拝(汗)

お地蔵様に参拝。

弘法大師の石造と延命地蔵。

弘法大師様に参拝。

足元の台座を見ると、

弘法大師の生誕地、

善通寺のある香川県(讃岐)の

石工さんの作品という事が

わかりました。

「香川県木田郡牟礼町

坂本石材工業」と刻まれています。

牟礼町を調べてみると、

ここには、

「石匠の里公園」なるものがあり

恐らく牟礼町は、

昔から石工の町だったのでしょう。

ここまでで、不動院の参拝は完了、

あとは一枚写真を撮るだけ・・・

こちらが最後の一枚(笑)

広島市唯一の国宝、不動院、

僕達二人で独占でした!

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください