上田城(長野県上田市)前編

 

城と藩主

江戸時代、上田藩主として

一番長かったのは松平氏。

そして、一番短かったのは真田氏。

でも、今の上田城は

一面六文銭の旗印が立ち、

まさしく「真田氏の上田城」です。

大阪城の豊臣秀吉、

熊本城の加藤清正、

小田原城の北条氏なども

上田城の状況と同じでしょう。

やはり戦国時代の活躍や悲劇は、

それだけでドラマティックであり

魅力満載ですからね。

平和な時代に頑張っても

目立たないのかな?(笑)

百間堀の樋(とい)

駐車場から

一番近いところにある見所が、

百間堀の樋です。

案内を要約すると

「二の丸北虎口の土橋には、

東から西側の堀へ水を通す

木製の樋があったが腐ったりして

困っていたので、幕府に願い出て

石の樋に変える工事を

許可してもらった」

このようになり、

そんな石樋がこちらです。

大きさの比較のため妻登場。

これなら千年経っても

腐らないですね(笑)

二の丸北虎口

石樋のある石垣を少し行くと、

二の丸北虎口の石垣が残っています。

二の丸北虎口。

入って左側にあるこの石垣のみが、

この虎口において、

建築当初のものと書かれています。

ということは、仙石氏時代、

江戸時代元和年間のものかな?

本丸土塁の隅欠

次に見つけたのが、

隅欠(すみおとし)です。

石垣ではなく「土塁」の隅欠とは、

初めて見ましたね。

隅欠とは、

鬼門である北東(艮)に対し、

角を造らない手法で、

「隅欠は、

真田氏のころから設けられていた。

上田城では、

藩主館の土塁や土塀にも

隅欠をし、各所に鬼門を除ける

強い意識が見られ、

上田城の特徴の一つとなっている。」

このようにも書かれています。

真田昌幸の鬼門に対する

真摯な気持ちは、

二度にわたる徳川軍撃退に

寄与したのかも知れませんね!

二の丸東虎口

大手門自体は、

遺構としては残っていませんが、

今はこの二の丸虎口がお城の

メインストリートとなっています。

入口。

枡形だったのかどうかは

わかりません。

櫓門・南櫓・北櫓

次に上田城の写真では

よく見かける櫓門と櫓へ。

左から南櫓、櫓門、北櫓。

顔出しパネル、

やっぱ、やらなきゃ!(笑)

平成時代復元された櫓門をアップ。

この門の右側、北櫓の石垣が

見所の一つです。

案内を超訳すると、

「この巨大な石は「真田石」と呼ばれ、

真田信之が松代移封を命じられた時、

父の形見として持っていこうとしたが

微動だにしなかったという云われのもの。

ただし、この石垣は仙石忠政が

造ったものである。」

このようになります。

やはりただの鏡石としておくより

真田石と言う方が、

観光客も喜びますし、

僕も注目してしまったし、

これで良いと思います(笑)

妻と真田石との大きさ比較。

櫓門をくぐり北櫓の石垣を撮影。

打込み接ぎと算木積みが

良く分かりますね。

南櫓から有料で中に入れます。

南櫓のアップ。

中の展示物。

奥は、鴻巣宿(埼玉県)で

死去した真田信之の妻、

大蓮院の遺骸を運んだと伝える駕籠。

「狭間(さま)」

「膝撃ちの姿勢で下方の敵を狙うのに

適した高さになっている」

こう書かれているので、

実際に妻がやってみたところ、

「とっても狙いやすかったよ!」

そう言っていました(笑)

二階へ。

ここで興味深いのが、

上田城縄張の変遷がよくわかる

三枚の絵図です。

天正年間、真田昌幸が

築城したころから

関ヶ原の戦い後、

破却されるまでの上田城。

基本は現在(江戸期)の

縄張に近いものがありますね。

関ヶ原で東軍についた真田信之が、

戦後、徳川によって

破壊された上田城に入った後、

松代藩に移封になるまでの上田城。

城自体は使わず(使えず)、

陣屋を政治の中心としたそうです。

元禄15年(1702)の上田城絵図。

案内を要約・補足すれば、

松代藩に転封した

真田信之に代わって

上田藩主となった仙石忠政により

破却された城は修復され

櫓などが建てられたが、

忠政はその途上で亡くなり、

未完成のまま嫡男政俊に引き継ぎ、

この絵図が描かれた4年後、

仙石氏は出石藩に転封となり

新たに松平氏が上田藩主となるも

城内はあまり使用されず、

荒廃してしまった。」

ということは、

現在が一番綺麗な状態なのかも?(笑)

上田城の模型。

仙石忠政が改修した時でしょう。

次は櫓門へ。

ここにも展示があります。

仙石氏以降の上田城&城下町。

復元された真田氏時代の金鯱。

秀吉は豊臣家の権威を

見せつける意味でも

全国の重要な大名の城には

金箔瓦や金鯱の使用を許していた

(命令して使わせていた?)ので、

これは恐らく、真田昌幸時代に

使われていた鯱の再現なのでしょう。

北櫓へ。

ここにはシアターがあり

映像で、上田城をいっそう

深く楽しめます。

城下町の変遷。

「元禄年間上田城下町絵図」

こちらは幕末「安政年間」。

元禄のころとさほど変わりはない?

いや深く読み解くと違うんでしょう(笑)

二階。

ここまででも

「ふぅ~」と言うくらい

目まぐるしく散策してきましたが、

帰りの飛行機に間に合わせるには、

更なるスピードアップが求められます(笑)

(後編へ続く)

今日の注目

南櫓の窓に置かれた五円玉に注目。

「真田家家紋 六文銭」

「三途の川の渡し銭であるとされ、

真田の武士は六文銭を旗印にすることで、

いつでも決死の覚悟で戦いに臨んでいた。」

「この格子窓にて五円玉による

六文銭を完成させることで、

おまじない的な効果と

大願成就の願いが叶うとされる。」

このように書かれています。

僅か30円で大願成就ですよ!!

やってみない手はありません!

って、

やってない僕が言うのも何ですが(笑)

 

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