上田城(長野県上田市)後編

 

家康の誤算?上田城

上田城の案内の中に、

「家康の命で築かれた上田城」

というものを発見しました。

案内の冒頭を書き出すと、

「上田城は天正十一年(1583)に

徳川家康の命令で築城を始めました。

この時、

真田昌幸は家康の力を利用して

居城を造らせ、

うまく城主に納まったのです。

ところが沼田領をめぐる

家康との対立が原因で、

昌幸が越後の上杉景勝に

主君を変えたことから、

天正十三年には

上杉方の城として完成します。

この間、徳川方七千の軍勢の

攻撃を受けた昌幸でしたが、

わずか二千の兵で

これを撃退しました(第一次上田合戦)。」

家康にとっての上田城築城は

ある意味、誤算だったでしょう。

家康の遺訓の一部、

「勝つことばかり知りて、

負くることを知らざれば

害その身にいたる」

こんな含蓄の深い言葉が出た背景には、

上田合戦で苦杯をなめた思い出(笑)も

あったかも知れませんね。

西櫓

仙石秀久が修復した上田城には

7つの櫓があったそうですが、

そのうちの一つが西櫓です。

櫓門から本丸に入ると、

そこには真田神社が鎮座しています。

神社参拝の事は次回に書くとして、

その本殿裏側、石段を登ると、

すぐ櫓の傍まで行けます。

西櫓近影。

仙石秀久が寛永期に建てたのもので、

当初の建築部材を残す、

現存櫓となっています。

(案内による)

本丸内の石垣を見ながら西櫓の反対側へ。

こちらからだと

石垣と櫓の雰囲気もよく分かります。

尼ヶ淵

この後、櫓下にある

上田城の難攻不落ぶりが

ひと目で理解出来る

尼ヶ淵へ下りてみます。

尼ヶ淵から侵入した敵兵は

この石垣で阻まれることになるようです。

尼ヶ淵は下部に見える

城の南側、断崖絶壁の部分。

妻と絶壁。

案内。

「江戸時代、

千曲川の分流が流れていた河原で

尼ヶ淵と呼ばれています。」

「この川は上田城を守る天然の堀だが、

大水が出ると尼ヶ淵の崖を

侵食することがあり、崖が崩れ、

櫓に被害が及ぶ心配があるという

諸刃の刃であった。」

「松平忠愛(ただざね)は、

享保十八年(1733)から

石垣を築いて崖を侵食から守りました。」

このように書かれています。

石垣と西櫓。

かなりの高石垣となっています。

こちらは南櫓。

横に広いので動画で

西櫓から南櫓までを撮影。

南櫓下の石垣について。

「(前略)中段石垣は、

長雨により一部崩落したことから

修復工事を実施しました。

中央部の崖面露出部分は、

崖が張り出しており

石垣が無かった部分であることから、

原形に基づきモルタルで修復しました。」

このように親切な説明となっています。

石垣(崖)の高さを表現するため、

妻に立ってもらいました。

櫓台の石垣を除いても

10m位はありそうですね。

南櫓と西櫓。

迫力満点の上田城に改めて感動。

これにて尼ヶ淵の散策は完了し、

本丸へと戻ります。

本丸

前述したように本丸は

真田神社がメインですが、

ゆっくり見れば、

多くの見所があるようです。

(僕たちは超特急・・汗)

何かの倉庫。

本丸の広場。

本丸端の土塁上。

上田市立博物館

最後に上田市立博物館へ。

時間が無いので、本館へは入らず、

別館の真田氏関連資料のみの見学です。

撮影禁止なので写真はナシ。

印象に残っているのは、

関ヶ原の戦いの後、改易され、

高野山に流された

真田昌幸、信繁父子から頻繁に

援助を求める手紙が

徳川に味方した長男、信之の元に届き、

その信之は常にお金などの工面が

大変だったという事実を知った事です。

大阪の夏の陣で信繁が亡くなり、

「これで開放された・・・」

なんて、

ホッとしたかもと勘ぐってしまうほど(笑)

それでも、親兄弟の「強い絆」には

大いに関心させられました。

今日の藤棚

本丸で見つけた藤棚。

根っこ側は低く、先に行くに連れ、

段々と高い藤棚になっています。

ちょっと珍しい形かな?

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください