上野大仏(東京都)
お顔のみ
「上野大仏」なるものを知ったのは、
旅に行く少し前のこと。
しかし、この大仏様、
正確に表現すれば、
「上野大仏の顔」なんですね(笑)
かつての大きな大仏さんは、
お顔のみとなっても
今もなお生きられているのです。
全ては運命の成せる業・・・
ご尊顔を拝ませていただき、
どんな状況になっても
「しぶとく生き残る」ことの尊さを
改めて感じた次第です。
パゴダ薬師堂
上野東照宮を参拝後、
上野大仏を目指し少し歩くと
小高い丘が見えてきます。
ここから石段で丘上へ。
案内。
入口。
パゴダ薬師堂と
上野大仏のお堂(絵馬の向こう側)。
まずはパゴダ薬師堂を参拝。
ご本尊「薬師瑠璃光如来」の説明。
そしてこれとは別にもう一つ、
手書きの案内があります。
上野東照宮にあったものが、
神仏分離令で寛永寺の所有になり、
現在ここに安置された経緯が
手書きで書かれています。
人の息吹を感じられる手書き、
なんとも言えず癒されますね〜!
アナログ文化、
是非大切にしたいものです。
上野大仏
次に大仏さんへ。
お顔に参拝。
ここには、
「顔」だけになっても
今なお元気に存在している
劇的なストーリーが記されていますので、
以下、丘の下にあった案内板の内容を
ミックスして時系列にまとめてみます。
「■寛永八年(1631)
越後国村上城主 堀直寄が戦乱に倒れた
敵味方を祈るため漆喰で釈迦如来を建立。
■明暦・万治の頃(1655〜60)
木喰浄雲という僧侶により
高さ6mの銅仏に改められる。
■元禄十一年(1698)
大仏殿を建立し伽藍が整えられる。
■天保十二年(1841)
火事によって
大仏・仏殿ともに被害を受ける。
■天保十四年(1843)
最初の漆喰製大仏造立者、堀直寄の子孫、
直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建。
■安政二年(1855)
大地震で大仏の頭部が倒壊したものの
間もなく堀家が修復。
■明治六年(または九年・十年説あり)
上野公園開設の際に仏殿が取り壊される。
■大正十二年
関東大震災で大仏の頭部が落下。
■第二次大戦中(昭和十六年〜二十年)
金属供出令により大仏の体・脚部を供出。
面部のみが寛永寺に遺った。
■昭和四十七年
丘陵上の左手に壁面を設け、
ここに「上野大仏」の顔を
レリーフ状に奉安した。」
この大仏さんは、
「顔だけが遺る運命」
だったのでしょう!
明治時代の写真。
手前に人がいるので
その大きさがよくわかります。
改めてお顔アップ。
この優しさに満ち溢れた表情こそが、
生き残った「何か」を
持っていたのかも知れません・・・
側面から丘を降りてお地蔵様に参拝。
上野公園の散策はまだまだ続きます。