真田父子別れの地・犬伏新町薬師堂
家名存続戦術
戦国時代に限らず、父子、兄弟が、
故意に、または、謀らずも敵味方となり、
勝利した側が家名を存続させた例は、
結構たくさんあるようで、
過去の旅でも一定数見てきましたが、
あまり知られていません。
そんな中、戦国を知恵と勇気で泳ぎきり、
江戸時代10万石の大名として、
明治維新まで続いた真田家は別格でしょう。
関ケ原の戦いの時、
親子で東西両軍に分かれて戦った
真田父子のことは歴史好きには
有名なお話ですが、
その家名存続のための
「苦渋の決断」をしたのが、
犬伏新町薬師堂で、
一般的に「犬伏の別れ」と
呼ばれる場所です。

犬伏薬師堂でいただいた案内を
書き出してみます。
「慶長五年(1600)、
天下分け目の関ケ原の合戦を目前に控えた
七月二十一日、徳川家康について
会津の上杉家討伐に向かった真田昌幸、
信幸(信之)、信繁(幸村)父子は
下野国犬伏(現在の佐野市)に
到着しました。
そこで陣を張っていた父子のもとに
石田三成から密書が届き、
豊臣方に味方するよう書かれていました。
この書状を受けて父子三人で話し合い、
どちらかが勝っても真田の家が残るよう、
信幸が徳川方、
昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを
決断したとされます。
その話し合いの場が
薬師堂であったといわれており、
すぐそばを流れていた川に架かる橋は、
真田父子の別れ橋として
この地に語り継がれています。」
一か八かの賭けではなく、
冷静沈着に生き残る「確率」に
焦点を絞って行動した真田父子・・・
その親子が悲しくも
偉大な決断を下した薬師堂。
ここに佇むと400年以上前の出来事が、
目の前に広がるように想像できます・・
犬伏新町薬師堂
この旅最後の訪問地となった
犬伏新町薬師堂でしたが、
なんとか日没時間の17時過ぎに到着。

エントランス。
この時、かなり暗かったのですが、
現代のスマホカメラは暗くても
自動で何もかもやってくれ、
腕前とは無関係に、
ちゃんと撮れるのです(笑)

ここは古墳として史蹟になっています。

この時間、
既に扉は閉まっています。

参拝。

案内板。
内容はパンフと同じなので割愛します。

お堂左側、赤背景の六文銭。
「六文銭は真田家の家紋として有名です」
こんな意味が英語で書かれています。
日本語で書くと、
「説明板」になってしまいますから
これをデザインとするならば、
英語表記はグッジョブですね!

右側、白背景の六文銭。

扁額。

最後に斜めから撮影。
地蔵堂
次に参道脇の地蔵堂へ。

お地蔵様が檻の中に
入れられているような?(笑)

何の光だったかは忘れましたが、
半身がピンクに染まった
綺麗なお地蔵様に参拝。
稲荷大明神
薬師堂の左側には、
稲荷大明神があります。

小綺麗なお堂は、
近年リニューアルされたのかも
知れません。

参拝。
この後は、車で小山駅へと戻ります。