石田三成陣跡(岐阜県関ケ原町)

 

笹尾山

石田三成は笹尾山に

布陣していなかったとか、

三成は、関ヶ原にはいなかったなど、

異説も飛び出していますが、

史実を追求するよりも

旅を楽しむのが先決な僕たち、

今の時点では、石田三成の陣は、

笹尾山という定説を信じましょう(笑)

島左近陣跡

石田三成が自らの禄高の半分を持って

召し抱えたとも言われる島左近は、

三成を護るような位置に布陣しているため、

石田三成の陣を訪問する前に、

島左近の陣を見る事になります。

(駐車した位置で違いますが)

島左近陣地全景。

案内。

「島左近は、黒田長政の家臣、

菅六之助(菅正利)の射撃で負傷し、

奮戦の末、討ち死にしたとも

戦場を脱したともいわれる」

このように書かれています。

そして、

訪問直後に僕たちを

楽しませてくれたのが、こちらです。

武将がいる!(笑)

観光客の容貌に応じで

色んなポーズを取ってくれる

かっこ良くて優しい武将でした。

石田三成陣跡

次に笹尾山の上にある

石田三成の陣跡へ。

家康の最初陣地に比べ、

関ヶ原町は、

西軍(三成)贔屓なのかと

思わせられる位に(笑)

遥かに手厚い保存と装飾、

メンテナンスがされています。

案内。

「西軍諸隊とともに、

前日の夜半に大垣城を出て、

合戦当日の午前1時頃

ここへ布陣した」

こんな文章を読むと、

徹夜で行軍し陣地を作ったとも言え、

いくら昔の人が体力があったとしても

戦いの時には既に疲労困憊していた

可能性もあるかもですね。

でも、同じく東軍も疲れていたかな(笑)

三成が大垣城を出た理由は、

家康の「三成誘い出し作戦」に

はまってしまったからというのは

後世の創作ということですが、

それを差し引いても、

やはり、この時点で、

百戦錬磨の家康に対し、

三成では役者が違い過ぎたのでしょう。

大規模な馬防柵。

陣跡。

展望所の案内板。

ここでは音声案内までが流れ、

やはり「力の入れよう」は別格です(笑)

合戦日、午前8時の陣形。

展望所から見た関ヶ原全景。

ここからは、松尾山の

小早川秀秋の陣も見えます。

再三の三成による攻撃要請にも動かず、

最終的には東軍側に寝返った秀秋を見て、

三成は何を思ったのでしょう・・・

己の力の無さなのか、

それとも裏切り者と罵り、憎悪したのか。

だだ、人間、結果には全て原因があります。

良い結果には良い原因が、

悪い結果には悪い原因が・・・。

やはり三成の悪い原因、

それは「人望の無さ」、

「敵を作り過ぎる性格」(推測ですが)

だったのかも知れません・・・。

動画だとさらに

関ヶ原全体の雰囲気がよく分かります。

石田三成陣跡の石碑。

「皇太子殿下

明治四十三年四月十五日

御野立所」の石碑。

大正天皇が皇太子時代、

ここで、休憩した事が書かれています。

やはり明治政府は、

戊辰戦争で徳川に勝利した側ですから

徳川に対抗した三成に敬意を表して、

ここが野立場所になるのも頷けます。

決戦地

石田三成が布陣した笹尾山から

目と鼻の先にあるのが、

「決戦地」と呼ばれる場所です。

決戦地から見た石田三成の陣。

案内。

「最後に残った石田隊や

島津隊に押し寄せる東軍諸隊で

うめつくされていたと考えられる」

こんなフレーズからして、

西軍にとっては絶望的な場所・・・。

僕が西軍の足軽なら

既に逃げていたかな?(笑)

決戦地の石碑を見て、

笹尾山周辺の散策は完了です。

 

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